ても、自分の留守のあいだに家族も財産もみな消え失せてしまって、何がどうしたのかいっさい判らないという不幸の境涯に沈んでいる人の心持を思いやると、僕の頭はまた重くなって来ました。
「あなた気分がよければ、風呂へはいって来ちゃあどうです。」と、西田さんは言いました。「汗を流してくると、気分がいよいよはっきりしますぜ。」
「しかしもう遅いでしょう。」
「なに、まだ十時前ですよ。風呂があるかないか、ちょいと行って聞いて来てあげましょう。」
 西田さんはすぐに立って表の方へ出て行きました。僕はもう一杯の水をのんで、初めてあたりを見まわすと、ここは奥の下屋敷で十畳の間らしい。庭には小さい流れが引いてあって、水のきわには芒《すすき》が高く茂っている。なんという鳥か知りませんが、どこかで遠く鳴く声が時々に寂しくきこえる。眼の前には高い山の影が真っ黒にそそり立って、澄み切った空には大きい星が銀色にきらめいている。飛騨と木曽と、僕はかさねて山国の秋を見たわけですが、場合が場合だけに、今夜の山の景色の方がなんとなく僕のこころを強くひきしめるように感じられました。
「あしたもまたあの汽車に乗るのかな。」
 僕はそれを思ってうんざりしていると、そこへ西田さんが足早に帰って来ました。
「風呂はまだあるそうです。早く行っていらっしゃい。」
 催促するように追い立てられて、僕もタオルを持って出て、西田さんに教えられた通りに、縁側から廊下づたいに風呂場へ行きました。

     三

 なんといっても木曽の宿です。殊に中央線の汽車が開通してからは、ここらの宿《しゅく》もさびれたということを聞いていましたが、まったく夜は静かです。ここの家もむかしは大きい宿屋であったらしいのですが、今は養蚕か何かを本業にして、宿屋は片商売という風らしいので、今夜もわたし達のほかには泊まり客もないようでした。店の方では、まだ起きているのでしょうが、なんの物音もきこえず森閑《しんかん》としていました。
 家の構えはなかな大きいので、風呂場はずっと奥の方にあります。長い廊下を渡って行くと、横手の方には夜露のひかる畑がみえて、虫の声がきれぎれに聞える。昼間の汽車の中とは違って、ここらの夜風は冷々《ひやひや》と肌にしみるようです。こういう時に油断すると風邪をひくと思いながら、僕は足を早めて行くと、眼の前に眠ったような灯のひかりが
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