多寡《たか》が二疋三疋の赤蜻蛉を見付けて、珍らしそうに五人も六人もで追い廻している。
 きょうは例の赤とんぼう日和《びより》であるが、殆《ほとん》ど一疋も見えない。わたしは昔の元園町がありありと眼前《めさき》に泛《うか》んで、年ごとに栄えてゆくこの町がだんだんに詰らなくなって行くようにも感じた。

     二 芸妓

 有名なお鉄《てつ》牡丹餅《ぼたもち》の店は、わたしの町内の角に存していたが、今は万屋《よろずや》という酒舗《さかや》になっている。
 その頃の元園町《もとぞのちょう》には料理屋も待合も貸席もあった。元園町と接近した麹町《こうじまち》四丁目の裏町には芸妓屋《げいしゃや》もあった。わたしが名を覚えているのは、玉吉《たまきち》、小浪《こなみ》などという芸妓で、小浪は死んだ。玉吉は吉原に巣を替えたとか聞いた。むかしの元園町は、今のような野暮《やぼ》な町ではなかったらしい。
 また、その頃のことで私が能《よ》く記憶しているのは、道路のおびただしく悪いことで、これは確《たしか》に今の方がいい。下町は知らず、我々の住む山の手では、商家《しょうか》でも店でこそランプを用いたれ、奥の住居《すまい》では大抵《たいてい》行灯《あんどう》を点《とぼ》していた。家に依《よっ》ては、店頭《みせさき》にも旧式のカンテラを用いていたのもある。往来に瓦斯灯《がすとう》もない、電灯もない、軒ランプなども無論なかった。随って夜の暗いことは殆《ほとん》ど今の人の想像の及ばない位で、湯に行くにも提灯《ちょうちん》を持ってゆく。寄席《よせ》に行くにも提灯を持ってゆく。加之《おまけ》に路《みち》が悪い。雪融《ゆきど》けの時などには、夜は迂濶《うっかり》歩けない位であった。しかし今日《こんにち》のように追剥《おいはぎ》や出歯亀《でばかめ》の噂などは甚だ稀であった。
 遊芸の稽古所というものも著るしく減じた。私の子供の頃には、元園町一丁目だけでも長唄の師匠が二、三|軒《げん》、常磐津《ときわづ》の師匠が三、四軒もあったように記憶しているが、今では殆ど一軒もない。湯帰りに師匠のところへ行って、一番|唸《うな》ろうという若い衆《しゅ》も、今では五十銭均一か何かで新宿へ繰込む。かくの如くにして、江戸子《えどっこ》は次第に亡びてゆく。浪花節《なにわぶし》の寄席が繁昌する。
 半鐘《はんしょう》の火《ひ》の
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