春木座へゆくためであった。
春木座は今日の本郷座である。十八年の五月から大阪の鳥熊という男が、大阪から中通りの腕達者な俳優一座を連れて来て、値安興行をはじめた。土間は全部開放して大入場として、入場料は六銭というのである。しかも半札をくれるので、来月はその半札に三銭を添えて出せばいいのであるから、要するに金九銭を以て二度の芝居が観られるというわけである。ともかくも春木座はいわゆる檜舞台の大劇場であるのに、それが二回九銭で見物できるというのであるから、確《たしか》に廉《やす》いに相違ない。それが大評判となって、毎月爪も立たないような大入りを占めた。
芝居狂の一少年がそれを見逃すはずがない。わたしは月初めの日曜ごとに春木座へ通うことを怠らなかったのである。ただ、困ることは開場が午前七時というのである。なにしろ非常の大入りである上に、日曜日などは殊《こと》に混雑するので、午前四時か遅くも五時頃までには劇場の前にゆき着いて、その開場を待っていなければならない。麹町《こうじまち》の元園町《もとぞのちょう》から徒歩で本郷まで行くのであるから、午前三時頃から家を出てゆく覚悟でなければならない。わた
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