兵場となっていた。それは一面の広い草原で、練兵中は通行を禁止されることもあったが、朝夕または日曜祭日には自由に通行を許された。しかも草刈りが十分に行き届かなかったとみえて、夏から秋にかけては高い草むらが到るところに見出された。北は水道橋に沿うた高い堤で、大樹が生い茂っていた。その堤の松には首縊《くびくく》りの松などという忌《いや》な名の附いていたのもあった。野犬が巣を作っていて、しばしば往来の人を咬《か》んだ。追《お》い剥《は》ぎも出た。明治二十四年二月、富士見町の玉子屋の小僧が懸取りに行った帰りに、ここで二人の賊に絞め殺された事件などは、新聞の三面記事として有名であった。
わたしは明治十八年から二十一年に至る四年間、即ちわたしが十四歳から十七歳に至るあいだ、毎月一度ずつは殆《ほとん》ど欠かさずに、この練兵場を通り抜けなければならなかった。その当時はもう練兵を止めてしまって、三菱に払い下げられたように聞いていたが、三菱の方でも直ぐにはそれを開こうともしないで、ただそのままの草原にしておいたので、普通にそれを三崎町の原と呼んでいた。わたしが毎月一度ずつ必ずその原を通り抜けたのは、本郷の
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