と》って、木刀をふりまわしている二三人を突きました。突かれた者はばた/\倒れる。これで先ず喧嘩の方は鎮まりました。突かれた者は泣顔をしているのを、奥さんがなだめて帰してやる。町家の組も叱られて帰る。どっちにも係り合わなかった者は、おとなしいと褒められて帰る。壁にかけてあるたんぽ[#「たんぽ」に傍点]槍は単に嚇しの為だと思っていたら、今日はほんとうに突かれたので、子供たちも内々驚いていました。
 その日はそれで済みましたが、あくる朝、黒鍬《くろくわ》の組屋敷にいる大塚孫八という侍がたずねて来て、御主人にお目にかゝりたいと云い込みました。黒鍬組は円通寺の坂下にありまして、御家人のなかでも小身者が多かったのです。市川さんは兎もかくも二百五十石の旗本、まるで格式が違います。殊に大塚の忰孫次郎はやはりこゝの屋敷へ稽古に通っているのですから、大塚は一層丁寧に挨拶しました。さて一通りの挨拶が済んで、それから大塚はこんなことを云い出しました。
「せがれ孫次郎めは親どもの仕付方が行きとゞきませぬので、御覧の通りの不行儀者、さだめてお目にあまることも数々であろうと存じまして、甚だ赤面の次第でござります。」
 それを序開きに、彼はきのうの一条について師匠に詰問をはじめたのです。前にもいう通り、身分違いの上に相手が師匠ですから、大塚は決して角立ったことは云いません。飽までも穏かに口をきいているのですが、その口上の趣意は正しく詰問で、今井の子息健次郎どのが三河屋のせがれ綱吉と喧嘩をはじめ、武家の子供、町家の子供がそれに加勢して挑み合った折柄に、師匠の其許はたんぽ[#「たんぽ」に傍点]槍を繰り出して、武家の子ども二三人を突き倒された。本人の健次郎どのは云うに及ばず、手前のせがれ孫次郎もその槍先にかゝったのである。それがために孫次郎は脾腹を強く突かれて、昨夜から大熱を発して苦しんでいる。勿論、一旦お世話をねがいましたる以上、不行儀者の御折檻は如何ようなされても、かならずお恨みとは存じないのであるが、喧嘩両成敗という掟にはずれて、その砌りに町家の子どもには何の御折檻も加えられず、武家の子供ばかりに厳重の御仕置をなされたのは如何なる思召でござろうか。弟子の仕付方はそれで宜しいのでござろうか。念のためにそれを伺いたいと云うのでした。
 市川さんは黙って聴いていました。

       二

 質のわるい弟子どもを師匠が折檻するのはめずらしくはない、町の師匠でも弓の折れや竹切れで引っぱたくのは幾らもあります。かみなり師匠のあだ名を取っているような怖い先生になると、自分の机のそばに薪ざっぽうを置いているのさえある。まして、武家の師匠がたんぽ[#「たんぽ」に傍点]槍でお見舞い申すぐらいのことは、その当時としては別に問題にはなりません。大塚もそれを兎やこう云うのではないが、なぜ町家の子供をかばって、武家の子どもばかりを折檻したかと詰問したいのです。どこの親もわが子は可愛い。現に自分のせがれは病人になるほどの酷《ひど》い目に逢っているのに、相手の方はみな無事に帰されたという。それはいかにも片手落ちの捌きではないかという不満が胸一ぱいに漲っているのです。もう一つには、なんと云っても相手は町人の子どもである。町人の子どもと武士の子どもが喧嘩をした場合に、武家の師匠が町人の贔屓をして、武士の子供を手ひどく折檻するのは其意を得ないという肚もあります。かた/″\して大塚は早朝からその掛合いに来たのでした。
 相手に云うだけのことは云わせて置いて、それから市川さんはその当時の事情をよく説明して聞かせました。自分は師匠として、決してどちらの贔屓をするのでもないが、この喧嘩は今井健次郎がわるい。他人の強飯のなかに自分の箸を突っ込むなどは、あまりに行儀の悪いことである。子供同士であるから喧嘩は已むを得ないとしても、稽古場でむやみに木刀をぬくなどはいよ/\悪い。お手前はなんと心得てわが子に木刀をさゝせて置くか知らぬが、子供であるから木刀をさしているので、大人の真剣もおなじことである。わたしの稽古場では木刀をぬくことは固く戒めてある。それを知りつゝ妄りに木刀をふりまわした以上、その罪は武家の子供等にあるから、わたしは彼等に折檻を加えたので、決して町人の子どもの贔屓をしたのではない。その辺は思い違いのないようにして貰いたいと云いました。
「御趣意よく相判りました。」と、大塚は一応はかしらを下げました。「町人の子どもは仕合せ、なんにも身に着けて居りませぬのでなあ。」
 かれは忌《いや》な笑いをみせました。大塚に云わせると、所詮は子ども同士の喧嘩で、武家の子どもは木刀をさしていたから抜いたのである。町家の子供はなんにも持っていないから空手で闘ったのである。町家の子供とても何かの武器を持っていれば、やはりそれを振りまわしたに相違ない。木刀をぬいたのは勿論わるいが、それらの事情をかんがえたら、特に一方のみを厳しく折檻するのは酷である。こう思うと、かれの不満は依然として消えないのです。
 もう一つには、こゝへ稽古にくる武家の子どもは、武士と云っても、貧乏旗本や小身の御家人の子弟が多い。町家の子どもの親達は、彼の三河屋をはじめとして皆相当の店持ですから、名こそ町人であるがその内証は裕福です。したがって、その親たちが平生から色々の附届けをするので、師匠もかれらの贔屓をするのであろうという、一種の僻《ひが》みも幾分かまじっているのです。それやこれやで、大塚は市川さんの説明を素直に受け入れることが出来ない。仕舞にはだん/\に忌味《いやみ》を云い出して、当世は武士より町人の方が幅のきく世の中であるから、せい/″\町人の御機嫌を取る方がよかろうと云うようなことを仄《ほの》めかしたので、市川さんは立腹しました。
 くどくも云うようですが、黒鍬というのは御家人のうちでも身分の低い方で、人柄もあまりよくないのが随分ありました。大塚などもその一人で、表面はどこまでも下手に出ていながら、真綿で針を包んだようにちくり[#「ちくり」に傍点]/\と遣りますから、正直な市川さんはすっかり怒ってしまったのです。
「わたしの云うことが判ったならば、それで好し。判らなければ以後は子供をこゝへ遣すな。もう帰れ、帰れ。」
 こうなれば喧嘩ですが、大塚も利口ですからこゝでは喧嘩をしません。一旦はおとなしく引揚げましたが、その足で近所の今井の屋敷へ出向きました。今井のせがれは喧嘩の発頭人ですから、第一番にたんぽ[#「たんぽ」に傍点]槍のお見舞をうけたのですが、家へ帰ってそんなことを云うと叱られると思って、これは黙っていましたから、親たちも知らない。そこへ大塚が来てきのうの一件を報告して、手前のせがれはそれが為に寝付いてしまったが、御当家の御子息に御別条はござらぬかという。今井は初めてそれを知って、せがれの健次郎を詮議すると、当人も隠し切れないで白状に及びましたが、幸いにこれには別条はなかった。しかし大塚の話をきいて、今井も顔の色を悪くしました。
 今井の屋敷の主人は佐久馬と云って、今年は四十前後の分別盛り、人間も曲った人ではありませんでしたが、今日の詞《ことば》でいえば階級思想の強い人で、武士は食わねど高楊枝、貧乏旗本と軽しめられても武士の家ということを非常の誇りとしている人物。したがって平生から町人どもを眼下に見下している。その息子が町人の子と喧嘩をして、師匠が町人の方の贔屓をして、わが子にたんぽ[#「たんぽ」に傍点]槍の仕置を加えたと云うことを知ると、どうも面白くない。おまけに大塚が色々の尾鰭をつけて、そばから煽るようなことを云いましたから、今井はいよ/\面白くない。しかし流石に大塚とは違いますから、子どもの喧嘩に親が出て、自分がむやみに市川さんの屋敷へ掛合いにゆくようなことはしませんでした。
「幾之進殿の仕付方、いさゝか残念に存ずる廉がないでもござらぬが、一旦その世話をたのんだ以上、兎やこう申しても致方があるまい。」
 今井は穏かに斯う云って大塚を帰しました。しかし伜の健次郎をよび付けて、きょうから市川の屋敷へは稽古にゆくなと云い渡しました。大塚のせがれは病中であるから、無論に行きません。これで武家の弟子がふたり減ったわけです。今井を煽動しても余り手|堪《ごた》えがないので、大塚は更に自分の組内をかけまわって、市川の屋敷では町家の子供ばかりを大切にして、武家の子どもを疎略にするのは怪しからぬと触れてあるいたので、黒鍬の組内の子供達はひとりも通って来なくなりました。今井は流石に触れて歩くようなことはしませんが、何かのついでには其話をして、市川の仕付方はどうも面白くないと云うような不満を洩すので、それが自然に伝わって、武家の子どもはだん/\に減るばかり。二月三月の後には、市川さんと特別に懇意にしている屋敷の子が二三人通って来るだけで、その他の弟子はみな町家の子になってしまいました。なんと云っても武家の師匠ですから、武家の子どもがストライキを遣って、町家の子供ばかりが通って来るのでは少し困ります。それでも市川さんは無頓着に稽古をつゞけていました。
 一ツ木辺は近年あんなに繁華になりましたが、昔は随分さびしいところで、竹藪などが沢山にありました。現に太田蜀山人の書いたものをみると、一ツ木の藪から大蛇があらわれて、三つになる子供を呑んだと云うことがあります。子供を呑んだのは嘘かほんとうか知りませんけれども、兎も角もそんな大蛇も出そうなところでした。その年の秋のひるすぎ、市川さんの屋敷から遠くないところの路ばたに、四五人の子供が手習草紙をぶら下げながら草花などをむしっていました。それはみな町家の弟子で、帰りに道草を食っていてはならぬ、かならず真直に家へ帰れよ、と師匠から云い渡されているのですが、やはり子供ですから然《そ》うは行きません。殊にきょうは天気がいゝので、稽古の帰りに遊んでいる。そのなかには三河屋の綱吉もいました。ほかにもこの間の喧嘩仲間が二人ほどまじっていました。
 この子供たちが余念もなしに遊んでいると、竹藪の奥から五六人の子供が出て来ました。どれもみな手拭で顔をつゝんで、その上に剣術の面をつけているので、人相は鳥渡《ちょっと》わからない。それが木刀や竹刀を持って飛び出して来て、町家の子供達をめちゃ/\になぐり付けました。そのなかでも三河屋の綱吉は第一に目指されて、殆ど正気をうしなうほどに打ち据えられてしまいました。
 子供達はおどろいて泣きながら逃げまわる。それでも素|疾《ばし》っこいのが師匠の屋敷へ逃げて帰って、そのことを訴えたので、居あわせた仲間ふたりと若党とがすぐに其場へ駈けつけると、乱暴者はもう逃げてゆくところでした。そのなかに餓鬼大将らしい十六七の少年が一人まじっている。そのうしろ姿が彼の大塚孫次郎の兄の孫太郎らしく思われたが、これは真先に逃げてしまったので、確かなことは判りませんでした。
 こういうわけで、相手はみな取逃してしまったので、撲られた方の子供たちを介抱して屋敷へ一旦連れて帰ると、三河屋の綱吉が一番ひどい怪我をして顔一面に腫れあがっている。次は伊丹屋という酒屋の伜で、これも半死半生になっている。その他は幸いに差したることでもないので、それ/″\に手当をして送り帰しましたが、三河屋と伊丹屋からは釣台をよこして子供を引取ってゆくという始末。どちらの親たちも工面が好いので、出来るだけの手当をしたのですが、やはり運が無いとみえて、三河屋の伜はそれから二日目の朝、伊丹屋のせがれは三日目の晩に、いずれも息を引取ってしまいました。
 さあ、そうなると事が面倒です。いくら子供だからと云って人間ふたりの命騒ぎですから、中々むずかしい詮議になったのですが、なにを云うにも相手をみな取逃したので、確かな証拠がない。前々からの事情をかんがえると、その下手人も大抵は判っているのですが、無証拠では何うにも仕様がない。且は町人の悲しさに、三河屋も伊丹屋も結局泣寝入りになってしまったのは可哀そうでした。
 それから惹いて、市川さんも手
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