女の身として、かような猥な書物を手にするなどとは、呆れ返った奴だ。」
 さん/″\叱り付けた上で、高松さんは弟に云いつけて、その写本全部を庭さきで焼き捨てさせました。お近さんが丹精した「春色梅ごよみ」十二冊は、炎天の下で白い灰になってしまったのです。お近さんは縁側に手をついたまゝで黙っていましたが、それがみんな灰になってゆくのを見たときには、涙をほろ/\とこぼしたそうです。それを横眼に睨んで、お父さんは又叱りました。
「なにが悲しい。なにを泣く。たわけた奴め。」
 阿母さんはさすがに女で、なんだか娘がいじらしいようにも思われて来たのですが、問題が問題ですから何とも取りなす術もない。その場は先ずそれで納まったのですが、高松さんは苦り切っていて、その日一日は殆ど誰とも口をきかない。お近さんは自分の部屋に這入って泣いている。今日の詞《ことば》で云えば、一家は暗い空気に包まれているとでもいう形で、その日も暮れてしまいました。
 その夜なかの事です。昼間の一件でむしゃくしゃするのと、今夜は悪く蒸暑いのとで、高松さんは夜のふけるまで眠られずにいると、裏口の雨戸をこじ明けるような音がきこえたので、もしや賊でも這入ったのかと、すぐに蚊帳をくゞって出て、長押《なげし》にかけてある手槍の鞘を払って、台所の方へ出てみると、一つの黒い影が今や雨戸をあけて出ようとするところでした。生憎に今夜は暗い晩でその姿もよくは判らないが、兎もかくも台所の広い土間から表へ出てゆく影だけは見えたので、高松さんはうしろから声をかけました。
「誰だ。」
 相手はなんにも返事もしないで、土間に積んである薪の一つを把《と》って、高松さんを目がけて叩き付けると、暗いので避け損じて、高松さんはその薪ざっぽうで左の腕を強く打たれました。名をきいても返事をしない、しかも手向いをする以上は、もう容赦はありません。高松さんは土間に飛び降りて追いかけると、相手は素疾く表へぬけて出る。なにしろ暗いので、もし取逃すといけないと思ったので、高松さんはその跫音をたよりに、持っている槍を投げ付けると、さすがは多年の手練で、その投槍に手堪えがあったと思うと、相手は悲鳴をあげて倒れました。
 この騒ぎに家中の者が起きてみると、ひとりの女が投槍に縫われて倒れていました。背から胸を貫かれたのですから、勿論即死です。それはお近さんで、着換え二三枚を入れた風呂敷づつみを抱えていました。
 お近さんは家出をして、どこへ行こうとしたのか、それは判りません。併しお仙の話によると、それより五六日ほど前に、お仙が大木戸の親類まで行ったとき、途中でお近さんに逢ったそうです。お近さんはひどく懐しそうに話しかけて、わたしは再び奉公に出たいと思うが、どこかに心当りはあるまいか。屋敷にはかぎらない、町家でもいゝと云うので、町家でもよければ心あたりを探してみようと答えて別れたことがあると云いますから、或いはお仙のところへでも頼って行く積りであったかも知れません。別に男があったというような噂はなかったそうです。
 お父さんに声をかけられた時、こっちの返事の仕様によっては真逆に殺されもしなかったでしょうに、手向いをしたばっかりに飛んでもないことになってしまいました。しかしお近さんの身になったら、その薪ざっぽうを叩き付けたのが、せめてもの腹癒せであったかも知れません。
「これもわたしが種を蒔いたようなものだ。」
 お仙はあとで切《しき》りに悔んでいました。三島のお嬢さまはその後どうしたか知りません。お近さんのお父さんは十五代将軍の上洛のお供をして、明治元年の正月、彼の伏見鳥羽の戦いで討死したと云うことです。
[#改段]

旗本の師匠

       一

 あるときに三浦老人がこんな話をした。
「いつぞや『置いてけ堀』や『梅暦』のお話をした時に、御家人たちが色々の内職をするといいましたが、その節も申した通り、同じ内職でも刀を磨《と》いだり、魚を釣ったりするのは、世間体のいゝ方でした。それから、髪を結うのもいゝことになっていました。陣中に髪結いはいないから、どうしてもお互いに髪を結い合うより外はない。それですから、武士が他人の髪を結っても差支えないことになっている。勿論、女や町人の頭をいじるのはいけない。更に上等になると、剣術柔術の武芸や手習学問を教える。これも一種の内職のようなものですが、こうなると立派な表芸で、世間の評判も好し、上のおぼえもめでたいのですから、一挙両得ということにもなります。」
「やはり月謝を取るのですか。」と、わたしは訊いた。
「所詮は内職ですから月謝を取りますよ。」と、老人は答えた。
「小身の御家人たちは内職ですが、御家人も上等の部に属する人や、または旗本衆になると、大抵は無月謝です。旗本の屋敷で月謝を取ったのは無いようです。武芸ならば道場が要る、手習学問ならば稽古場が要る。したがって炭や茶もいる、第一に畳が切れる。まだそのほかに、正月の稽古はじめには余興の福引などをやる。歌がるたの会をやる。初|午《うま》には強飯《こわめし》を食わせる。三月の節句には白酒をのませる。五月には柏餅を食わせる。手習の師匠であれば、たなばた祭もする。煤はらいには甘酒をのませる、餅搗きには餅を食わせるというのですから、師匠は相当の物入りがあります。それで無月謝、せい/″\が盆正月の礼に半紙か扇子か砂糖袋を持って来るぐらいのことですから、慾得づくでは出来ない仕事です。ことに手習子《てならいこ》でも寄せるとなると、主人ばかりではない、女中や奥様までが手伝って世話を焼かなければならないようにもなる。毎日随分うるさいことです。」
「そういうのは道楽なんでしょうか。」
「道楽もありましょうし、人に教えてやりたいという奇特の心掛けの人もありましょうし、上《かみ》のお覚えをめでたくして自分の出世の蔓にしようと考えている人もありましょうし、それは其人によって違っているのですから、一概にどうと云うわけにも行きますまい。又そのなかには、自分の屋敷を道場や稽古場にしていると云うのを口実に、知行所から余分のものを取立てるのもある。むかしの人間は正直ですから、おれの殿様は剣術や手習を教えて、大勢の世話をしていらっしゃるのだから、定めてお物入りも多かろうと、知行所の者共も大抵のことは我慢して納めるようにもなる。こういうのは、弟子から月謝を取らないで、知行所の方から月謝を取るようなわけですが、それでも知行所の者は不服を云わない。江戸のお屋敷では何十人の弟子を取っていらっしゃるそうだなどと、却って自慢をしている位で、これだけでも今とむかしとは人気が違いますよ。いや、その無月謝のお師匠様について、こんなお話があります。」

 赤坂一ツ木に市川幾之進という旗本がありました。大身というのではありませんが、二百五十石ほどの家柄で、持明院流の字をよく書くところから、前に云ったように手跡《しゅせき》指南をすることになりました。この人はまことに心がけの宜しい方で、それを出世の蔓にしようなどという野心があるでも無し、蔵前取《くらまえど》りで知行所を持たないのですから、それを口実に余分のものを取立てるという的《あて》があるでも無し、つまりは自分の好きで、自分の身銭を切って大勢の弟子の面倒をみていると云うわけでした。
 市川さんはその頃四十前後、奥さんはお絹さんと云って三十五六、似たもの夫婦という譬の通り、この奥さんも深切に弟子たちの世話を焼くので、まことに評判がよろしい。お照さんという今年十六の娘があって、これも女中と一緒になって稽古場の手伝いをしていました。市川さんの屋敷はあまり広くないので、十六畳ほどのところを稽古場にしている。勿論、それを本業にしている町の師匠とは違いますから、弟子はそんなに多くない。町の師匠ですと、多いのは二百人ぐらい、少くも六七十人の弟子を取っていますが、市川さんなどの屋敷へ通ってくるのは大抵二三十人ぐらいでした。
 そこで鳥渡《ちょっと》お断り申して置きますが、こういう師匠の指南をうけに来るものは、かならず武家の子どもに限ったことはありません。町人職人の子どもでも弟子に取るのが習いでした。師匠が旗本であろうが、御家人であろうが、弟子師匠の関係はまた格別で、そのあいだに武家と町人との差別はない。已に手跡を指南するという以上は、大工や魚屋の子どもが稽古に来ても、旗本の殿様がよろこんで教えたものです。それですから、こういう屋敷の稽古になると、武家の息子や娘も来る、町人や職人の子供も来るというわけで、師匠によっては武家と町人との席を区別するところもあり、又は無差別に坐らせるところもありましたが、男の子と女の子とは必ず別々に坐らせることになっていました。市川さんの屋敷では武家も町人も無差別で、なんでも入門の順で天神机を列べさせることになっていたそうです。
 一体、町家の子どもは町の師匠に通うのが普通ですが、下町と違って山の手には町の師匠が少いという事情もあり、たといその師匠があっても、御屋敷へ稽古に通わせる方が行儀がよくなると云って、わざ/\武家の指南所へ通わせる親達もある。痩せても枯れても旗本の殿様や奥様が涎れくりの世話を焼いてくれて、しかもそれが無月謝というのだから有難いわけです。その代りに仕付方《しつけかた》はすこし厳しい。なにしろ御師匠さまは刀をさしているのだから怖い。それがまた当人の為にもなると、喜んでいる親もあるのでした。市川さんのところにも町の子どもが七八人通っていましたが、市川さんも奥さんも真直な気性の人でしたから、武家の子供も町家の子供もおなじように教えます。そのあいだに些《ちっ》とも分け隔てがない。それですから、町家の親達はいよ/\喜んでいました。
 それだけならば、至極結構なわけで、別にお話の種になるような事件も起らない筈ですが、嘉永二年の六月十五日、この日は赤坂の総鎮守氷川神社の祭礼だというので、市川さんの屋敷では強飯《こわめし》をたいて、なにかの煮染《にし》めものを取添えて、手習子たちに食べさせました。きょうは御稽古は休みです。土地のお祭りですから、どこの家《うち》でも強飯ぐらいは拵えるのですが、子供たちはお師匠さまのお屋敷で強飯の御馳走になって、それから勝手に遊びに出る。それが年々の例になっているので、今年もいつもの通りにあつまって来る。奥さんやお嬢さんや女中が手伝って、めい/\の前に強飯とお煮染めをならべる。いくら行儀がいゝと云っても、子供たちのことではあり、殊にきょうはお祭りだというのですから、大勢がわあ/\騒ぎ立てる。それでも不断の日とは違うから、誰も叱らない。子供たちは好い気になって騒ぐ。そのうちに、今井健次郎という今年十二になる男の児が三河屋綱吉という同い年の児の強飯のなかへ自分の箸を突っ込んだ。それが喧嘩のはじまりで、ふたりがとう/\組討になると、健次郎の方にも四五人、綱吉の方にも三四人の加勢が出て、畳の上でどたばた[#「どたばた」に傍点]という大騒ぎが始まりました。
 健次郎はこの近所に屋敷を持っている百石取りの小さい旗本の忰で、綱吉は三河屋という米屋の忰です。師匠はふだんから分け隔てのないように教えていても、屋敷の子と町家の子とのあいだには自然に隔てがある。さあ喧嘩ということになると、武家の子は武家方、町家の子は町家方、たがいに党を組んでいがみ合うようになります。きょうも健次郎の方には武家の子どもが加勢する。綱吉の方には町家の子どもが味方するというわけで、奥さんや女中が制してもなか/\鎮まらない。そのうちに健次郎をはじめ、武家の子供たちが木刀をぬきました。子供ですから木刀をさしている。それを抜いて振りまわそうとするのを見て、師匠の市川さんももう捨て置かれなくなりました。
「これ、鎮まれ、鎮まれ。騒ぐな。」
 いつもならば叱られて素直に鎮まるのですが、きょうはお祭で気が昂《た》っているのか、どっちもなか/\鎮まらない。市川さんは壁にかけてあるたんぽ[#「たんぽ」に傍点][#「たんぽ」は底本では「たんぼ」]槍を把《
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