からだを半分くゞらせる途端に、その髪の毛が蚊帳に触って、何かぱらりと畳に落ちたものがありました。それは彼の黄楊《つげ》の櫛でした。

「お話は先ずこゝ迄です。」と、三浦老人は一息ついた。「その櫛が落ちると、お幾はもとの顔にみえたそうです。それで、だん/\に阿部さんの気も落ちつく。例の置いてけえも聞えなくなる。先ず何事もなしに済んだということです。お幾は初めに櫛を貰って、一旦は自分の針箱の上にのせて置いたのですが、蝮の療治がすんで、自分の部屋へ戻って来て、その櫛を手に取って再び眺めているところを、急に主人に呼ばれたので、あわてゝその櫛を自分の頭にさして、主人の枕もとへ出て行ったのだそうです。」
「そうすると、その櫛をさしているあいだは美しい女に見えたんですね。」と、わたしは首をかしげながら訊いた。
「まあ、そういうわけです。その櫛をさしているあいだは見ちがえるような美しい女にみえて、それが落ちると元の女になったというのです。」と、老人は答えた。「どうしてもその櫛になにかの因縁話がありそうですよ。しかしそれは誰の物か、とう/\判らずじまいであったということです。その櫛と、置いてけえと呼ぶ声
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