土用のうちで暑さも強い。師匠によると土用休みをするのもあるが、高松さんは休まない。きょうも朝の稽古をしまって、汗を拭きに裏手の井戸端へ出ました。場末の組屋敷ですから地面は広い。うらの方は畑になって矢はり唐蜀黍《とうもろこし》などが栽えてある。その畑のなかに白地の単衣をきた女が忍ぶように立っている。それがお近さんであることは、高松さんにはすぐに判ったのですが、向うでは些《ちっ》とも気が注かないで、何か一心に読み耽っているらしい。以前ならばそのまゝに見過してしまったのでしょうが、此頃はひどく信用を墜しているお近さんがわざ/\畑のなかへ出て、唐蜀黍のかげに隠れるようにして何か読んでいる。それがお父さんの注意をひいたので、高松さんは抜足をして竊《そっ》とそのうしろへ廻って行きました。
 日を避け、人目をよけて、お近さんが唐蜀黍の畑のなかで一心に読んでいたのは例の写本の一冊でした。こんなものが両親の眼に止まっては大変ですから、お近さんは自分の葛籠《つゞら》の底ふかく秘めて置いて、人に見付からないようなところへ持ち出して、そっと読んでいる。そこを今朝は運悪くお父さんに見付けられたのです。
「これは
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