金の右の頬をかすったので、矢疵のあとが残りました。お金が真直に負《おぶ》われていたら、おふくろと一緒に射徹されてしまったかも知れなかったのですが、子供のことですから半分眠っていて、首を少しく一方へかしげていた為に、かすり疵だけで済んだのでした。
 不義者を成敗したのですから、桜井さんには勿論なんの咎めもありません。用人の神原伝右衛門はわが子の罪をひき受けて切腹しました。これでこの一件も落着したのですが、さてそのお金という娘の始末です。わが子ではあるが、不義の母が連れ出した娘であると思うと、桜井さんはどうも可愛くない。殊にその頬に残っている矢疵を見るたびに忌《いや》な心持をさせられるので、思い切って屋敷から出してしまうことにしました。表面は里子に出すということにして、その実は音信不通の約束で、出入りの植木屋の万吉というものに遣ったのですが、その万吉も女房のお幸も気だての善《い》い者で、すべての事情を承知の上でお金を引き取って、うみの娘のように育てゝいるうちに、亭主の万吉が早く死んだので、お幸はお金を連子にして神明の安兵衛のところへ再縁しました。安兵衛は神明の矢場や水茶屋へ菓子を売りにゆくので、その縁でお金も矢場へ出るようになった。それは前にも申上げた通りです。
 お幸は亭主運のない女で、前の亭主にも早く死別れ、二度目の亭主の安兵衛にも死別れて、今では娘のお金ひとりを頼りにしていましたが、昔の約束を固く守って、彼の矢疵の因縁はお金にも話したことはありません。子供のときに吹矢で射られたなどと好い加減のことを云い聞かせて置いたので、お金も自分の素性を夢にも知らなかったのです。そのうちに、今年の春になって突然彼の若侍がたずねて来ました。若侍はお金の弟の庄之助で、その当時はまだ当歳の赤児でしたが、だん/\生長するにつれて、母のことや姉のことを知りましたが、植木屋の万吉はもう此世を去り、その女房はどこへか再縁してしまったというので、姉のありかを尋ねる手がかりも無かったのです。この庄之助という人は姉弟思いで、子供のときに別れた姉さんに一度逢いたいと祈っていると、今年十九の春になって、神明の矢場に矢がすりお金という女があることを、不図聞き出しました。
 頬に矢疵があると云い、その名前といい、年頃といゝ、もしやと思って竊《そっ》と見にゆくと、どうもそれらしく思われたが、迂濶にそんなことを云い出すわけにも行かないので、たゞ一通りの遊びのように見せかけて、幾たびか神明通いをした上で、だん/\にお金とも馴染になって、その実家は片門前にあることや、おふくろの名はお幸ということなどを確かめたので、ある日片門前の家へたずねて行って、おふくろのお幸に逢いました。お幸も最初はあやぶんでいたのですが、庄之助の方から自分の屋敷の名をあかし、併せて一切の秘密をうち明けたので、お幸もはじめて安心して、これも正直に何も彼も打ちあけることになりました。お金は初めて自分の素性を知って驚いたわけです。そこで庄之助は姉にむかって云いました。
「お父さまは近ごろ御病身で、昨年の夏から御隠居のお届けをなされまして、若年ながら手前が家督を相続しております。つきましてはひとりのお姉《あねえ》様を唯今のようなお姿にして置くことはなりませぬ。表向きに屋敷へお連れ申すことは出来ませずとも、どこぞに相当の世帯をお持ちなされて、義理の母御と御不自由なくお暮しなさるゝように、手前が屹とお賄い申します。」
 そうなればまことに有難い話で、お幸に勿論異存のあろう筈はありませんでしたが、お金はすこし返事に困りました。矢場女をやめて、弟の仕送りで気楽に暮して行かれるのは結構ですが、お金には内緒の男がいる。上手に逢曳をしているので今まで誰にも覚られなかったのですが、お金には新内松《しんないまつ》という悪い男が附いているのです。以前は新内の流しを遣っていて、今の商売は巾着切り、そこで綽名を新内松という苦味走った大哥《あに》さんに、お金はすっかり打込んでいる。新内松と矢飛白おきん、その頃ならば羽左衛門に田之助とでも云いそうな役廻りですが、この方には大した芝居もなくて済んでいたところへ、十九年ぶりで弟の庄之助が突然にたずねて来て、自分の姉として世話をして遣ろうという。お金に取っては有難迷惑です。
 たとい本所の屋敷へ引取られないでも、今の商売をやめて弟の世話になるのは、いかにも窮屈であり、又自分の男のかゝり合いから、どんなことで弟に迷惑をかけないとも限らない。さりとて新内松と手を切って、堅気に暮すなどという心は微塵もないので、お金はなんとかして庄之助の相談を断りたいと思ったが、まさかに巾着切りを男に持っていますと正直に云うことも出来ない。よんどころなく好い加減の挨拶をして其場は別れたのですが、もとより矢場の稼ぎを止
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