とで、彼のお金は一昨年《おととし》のお祭に踊屋台に出た。それが右の「嵯峨や御室」で、お金は滝夜叉を勤めて大層評判が好かったのだそうです。そう云う因縁があるので、清吉は自分の背中にも是非その滝夜叉を彫って貰いたいと望んだわけでした。
源七もいよ/\根負けがして、まあなんでも可《い》い、当人の註文通りに滝夜叉でも光国でも彫ることにして、例の筋彫りで懲りさしてしまおうと云う料簡で、先ず下絵に取りかゝりました。それから例の太い針でちくり[#「ちくり」に傍点]/\と突っ付きはじめたが、清吉は眼を瞑《つぶ》って、歯を食いしばって、じっ[#「じっ」に傍点]と我慢をしている。痛むかと訊いても、痛くないと答える。それでも元来無理な仕事をするのですから、強情や我慢ばかりで押通せる訳のものではありません。半月も立たないうちに幾度もひどい熱が出て、清吉は殆ど半病人のようになってしまったが、それでも根よく通って来ました。
当人の親たちも大変心配して、そんな無理をすると身体に障るだろうと、たび/\意見をしたのですが、清吉はどうしても肯かない。例の通り、死んでもかまわないと強情を張り通しているのだから、周囲《まわり》の者も手を付けることが出来ない。親たちも店の者もたゞ心配しながら日を送っているうちに、清吉はだん/\に弱って来ました。顔の色は真蒼になって、今年十九の若い者が杖をついて歩くようになった。それでも毎日かゝさず通って来るので、源七はその強情におどろくと云うよりも、なんだか可哀そうになって来ました。この上につゞけて彫っていれば、どうしても死ぬよりほかはない。最初からもう一月の余になるが、滝夜叉の全身の筋彫りがよう/\出来上ったぐらいのもので、これから光国の筋彫りを済まして、更に本当の色ざしを終るまでには、幾日かゝるか判ったものではない。清吉がその総仕上げまで生きていられないことは知れきっているので、なんとかしてこゝらで思い切らしたいものだと、源七も色々に考えていると、なんでも冬のなかばで、霙《みぞれ》まじりの寒い雨が降る日だったそうです。清吉はもう歩く元気もない、殊に雨が降っているせいでもありましょう、自分の家の駕籠に乗せられて源七の家へ来ました。なんぼなんでも最《も》う見てはいられないので、半分死んでいるような清吉にむかって、わたしは医者ではないから、ひとの身体のことはよく判らないが、多年の商売の経験で大抵の推量は付く。おまえさんがこの上無理に刺青をすれば、どうしても死ぬに決まっているが、それでも構わずに遣る気か、どうだと云って、噛んで含めるように意見をすると、当人ももう大抵覚悟をしていたとみえて、今度はあまり強情を張りませんでした。
この時に清吉は初めて彼のお金の一条をうちあけて、自分はどうしてもこの身体に刺青をして、梅の井の奴等に見せてやろうと思ったのだが、それももう出来そうもない。滝夜叉も光国も出来上らないうちに死んでしまうらしい。ついては「嵯峨や御室」の方を中止して、左の腕に位牌、右の腕に石塔を彫って貰いたいと、やつれた顔に涙をこぼして頼んだそうです。源七老爺さんも「その時にはわたしも泣かされましたよ。」とわたしに話しました。
どうで死ぬと覚悟をしている人の頼みだから、源七も否とは云わなかった。その後も清吉は駕籠で通って来るので、源七も一生懸命の腕をふるって、位牌と石塔とを彫りました。それがようやく出来あがると、清吉は大変によろこんで、あつく礼を云って帰ったが、それから二日ほど経って死んでしまいました。初島の家から報せてやると、梅の井のお金もおふくろも駈けつけて来ましたが、今更泣いても謝っても追っ付くわけのものではありません。菩提寺の和尚様は筆を執って、仏の左右の腕に彫られている位牌と石塔とに戒名をかいて遣ったということです。
[#改段]
雷見舞
一
六月の末であった。
梅雨の晴間をみて、二月ぶりで大久保をたずねると、途中から空の色がまた怪しくなって、わたしが向ってゆく甲州の方角から意地わるくごろ[#「ごろ」に傍点]/\云う音がきこえ出した。どうしようかと少し躊躇したが、大したこともあるまいと多寡をくゝって、そのまゝに踏み出すと、大久保の停車場についた頃から夕立めいた大粒の雨がざっとふり出して、甲州の雷はもう東京へ乗込んだらしく、わたしの頭のうえで鳴りはじめた。
傘は用意して来たが、この大雨を衝いて出るほどの勇気もないので、わたしは停車場の構内でしばらく雨やどりをすることにした。そのころの構内は狭いので、わたしと同じような雨やどりが押合っているばかりか、往来の人たちまでが屋根の下へどや/\と駈け込んで来たので、ぬれた傘と湿《ぬ》れた袖とが摺れ合うように混雑していた。
わたしの額には汗がにじんで来た。
わ
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