畳みかけて罵倒したのです。いくら口惜がっても清吉は年が若い、口のさきの勝負では迚《とて》もこゝのおふくろに敵わないのは知れている。それでも負けない気になって二言三言云い合っているうちに、周囲《まわり》にはいよ/\人立ちがして来たので、おふくろの方でも焦れったくなって来た。
「お前さんのような唐人を相手にしちゃあいられない。なにしろ、お金はあたしの娘なんだからね。当人同士どんな約束があるか知らないが、お金を貰いたけりゃあその背中へ立派に刺青をしておいでよ。」
 おふくろは勝鬨のような笑い声を残して、奥へずん[#「ずん」に傍点]/\這入ってしまうと、お金はなんにも云わずに、つゞいて行ってしまった。取残された清吉は身顫いするほどに口惜がりました。
「うぬ、今に見ろ。」
 その足ですぐに駈け込んだのが源七|老爺《じい》さんの家でした。老爺さんはその頃宇田川横町に住んでいて、近所の人ですからお互いに顔は知っていたのです。
 おなじ悪口でも、いっそ馬鹿とか白痴《たわけ》とか云われたのならば、清吉も左ほどには感じなかったかも知れないのですが、ふだんから自分も苦に患《や》んでいる自分の弱味を真正面《まとも》から突かれたので、その悪口が一層手ひどくわが身に堪えたのでしょう。源七にむかって、なんでも可《い》いから是非|刺青《ほりもの》をしてくれと頼んだのですが、老爺《じい》さんも素直に諾《うん》とは云わなかったそうです。
「お前さんはからだが弱いので、刺青をしないと云うことも予て聞いている。まあ、止したほうが可いでしょうよ。」
 こんな一通りの意見は、逆上《のぼ》せ切っている清吉の耳に這入ろう筈がありません、邪《じゃ》が非《ひ》でも刺青をしてくれ、それでなければ男の一|分《ぶん》が立たない。死んでも構わないから彫ってくれと、斯う云うのです。源七も仕方がないから、まあ兎も角も念のためにその身体をあらためて見ると、なるほど不可《いけ》ない。こんな孱弱《かよわ》いからだに朱や墨を注《さ》すのは、毒を注すようなものだと思ったが、当人は死んでも構わないと駄々を捏ねているのですから、この上にもうなんとも云いようがない。それでも商売人は馴れているから、先ずこんなことを云いました。
「それほどお望みなら彫ってあげても可《い》いが、きょうはお前さんが酔っているようだからおよしなさい。」
 清吉は酔っていないと云いました。今朝から一杯も酒を飲んだことはないと云ったのですが、源七はその背中の肉を撫でて見て、少しかんがえました。
「いえ、酒の気があります。酒を飲まないにしても、味淋の這入ったものを何か喫《た》べたでしょう。少しでも酒の気があっては、彫れませんよ。」
 酒と違って、味淋は普通の煮物にも使うものですから、果して食ったか食わないか、自分にもはっきり[#「はっきり」に傍点]とは判らない。これには清吉も些《ちっ》と困った。
「味淋の気があっても不可ませんか。」
「不可ません。すこしでも酔っているような気があると、墨はみんな散ってしまいます。」
 刺青師が無分別の若者を扱うには、いつも此の手を用いるのだそうです。この論法で、きょうも不可《いけ》ない、あしたも不可ないと云って、二度も三度も追い返すと、しまいには相手も飽きて、来なくなる。それでも強情に押掛けてくる奴には、先ず筋彫りをすると云って、人物や花鳥の輪廓を太い線で描く。その場合にはわざと太い針を用いて、精々痛むようにちくり[#「ちくり」に傍点]/\と肉を刺すから堪らない。大抵のものは泣いてしまいます。縦令《よしん》ば歯を食い縛って堪えても、身体の方が承知しないで、きっと熱が発《で》る、五六日は苦しむ。これで大抵のものは降参してしまうのです。源七もこの流儀で、味淋の気があるを口実にして、一旦は先ず体よく清吉を追い返したのですが、なか/\この位のことで諦めるのではない。あくる日もその明くる日も毎日毎日根よく押掛けて来るので、源七|老爺《じい》さんも仕舞には根負けをしてしまって、それほど執心ならば兎もかくも彫ってみましょうという事になりました。
 そこで源七は先ず筋彫りにかゝった。一体なにを彫るのかと云って雛形の手本をみせると、清吉は「嵯峨や御室《おむろ》」の光国と滝夜叉を彫ってくれと云う注文を出しました。おなじ刺青でも二人立と来ては大仕事で、殊に滝夜叉は傾城《けいせい》の姿ですから、手数がなか/\かゝる。無論、手間賃は幾らでもいゝと云うのですが、この男の痩せた生白い背中に、それほど手の込んだ二人立が乗る訳のものではないので、もう些《ちっ》と軽いものをと色々に勧めたのですが、清吉はどうしても肯かない。是非とも「嵯峨や御室」を頼むと強情を張るので、源七はまた弱らせられました。併しあとで考えると、それにも一応理窟のあるこ
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