のです。それでもその当時は、三芝居だとか檜舞台だとか云って、むやみに有難がっていたもので、今から考えると可笑《おかし》いくらい。なにしろ、芝居なぞというものは町人や職人が見るもので、所謂知識階級の人たちは立ち寄らないことになっていたのですから、今日とは万事が違います。
 それでは学者や侍は芝居を一切見物しないかと云うと、そうではない。芝居の好きな人は矢はり覗きに行くのですが、まったく文字通りに「覗き」に行くので、大手をふって乗り込むわけには行きません。勿論、武家|法度《はっと》のうちにも武士は歌舞伎を見るべからずという個条はないようですが、それでも自然にそういう習慣が出来てしまって、武士は先ずそういう場所へ立寄らないことになっている。一時はその習慣もよほど廃れかゝっていたのですが、御承知の通り、安政四年四月十四日、三丁目の森田座で天竺徳兵衛の狂言を演じている最中に、桟敷に見物していた肥後の侍が、たとい狂言とはいえ、子として親の首を打つということがあろうかというので、俄に逆上して桟敷を飛び降り、舞台にいる天竺徳兵衛の市蔵に斬ってかゝったという大騒ぎ。その以来、侍の芝居見物ということが又やかましくなりまして、それまでは大小をさしたまゝで芝居小屋へ這入ることも出来たのですが、以来は大小をさして木戸をくゞること堅く無用、腰の物はかならず芝居茶屋にあずけて行くことに触れ渡されてしまいました。
 それですから、侍が芝居を見るときには、大小を茶屋にあずけて、丸腰で這入らなければならない。つまり吉原へ遊びに行くのと同じことになったわけですから、物堅い屋敷では藩中の芝居見物をやかましく云う。江戸の侍もおのずと遠慮勝になる。それでもやっぱり芝居見物をやめられないと云う熱心家は、芝居茶屋に大小をあずけ、羽織もあずけ、そこで縞物の羽織などに着かえるものもある。用心のいゝのは、身ぐるみ着かえてしまって、双子《ふたこ》の半纏などを引っかけて、手拭を米屋かぶりなどにして土間の隅の方で竊《そっ》と見物しているものもある。いずれにしても、おなじ銭を払いながら小さく見物している傾きがある。どこへ行っても威張っている侍が、芝居[#「芝居」は底本では「芸居」]へくると遠慮をしているというのも面白いわけでした。
 前置がちっと長くなりましたが、その侍の芝居見物のときのお話です。市ヶ谷の月桂寺のそばに藤崎余一郎という人がありました。二百俵ほど取っていた組与力で、年はまだ二十一、阿母《おっか》さんと中間《ちゅうげん》と下女と四人暮しで、先ず無事に御役をつとめていたのですが、この人に一つの道楽がある。それは例の芝居好きで、どこの座が贔屓だとか、どの俳優《やくしゃ》が贔屓だとか云うのでなく、どこの芝居でも替り目ごとに覗きたいというのだから大変です。ほかの小遣いはなるたけ倹約して、みんな猿若町へ運んでしまう。侍としてはあまり好《い》い道楽ではありません。いつぞやお話をした桐畑の太夫――あれよりはずっと[#「ずっと」に傍点]優《ま》しですけれども、やはり世間からは褒められない方です。
 それでも阿母《おっか》さんは案外に捌けた人で、いくら侍でも若いものには何かの道楽がある。女狂いよりは芝居道楽の方がまだ始末がいゝと云ったようなわけで、さのみにやかましく云いませんでしたから、本人は大手をふって屋敷を出てゆく。そのうちに一つの事件が出来《しゅったい》した。というのは、文久二年の市村座の五月狂言は「菖蒲合仇討講談《しょうぶあわせあだうちこうだん》」で、合邦《がっぽう》ヶ辻に亀山の仇討を綴じあわせたもの。俳優《やくしゃ》は関三《せきさん》に団蔵、粂三郎、それに売出しの芝翫、権十郎、羽左衛門というような若手が加わっているのだから、馬鹿に人気が好い。二番目は堀川の猿まわしで、芝翫の与次郎、粂三郎のおしゅん、羽左衛門の伝兵衛、おつきあいに関三と団蔵と権十郎の三人が掛取りを勤めるというのですから、これだけでも立派な呼び物になります。その辻番附をみただけでも、藤崎さんはもうぞく/\して初日を待っていました。
 なんでも初日から五六日目の五月十五日であったそうです。藤崎さんは例の通りに猿若町へ出かけて行きました。さっきも申す通り、家から着がえを抱えて行く人もあり、前以て芝居町の近所の知人の家へあずけて置いて、そこで着かえて行く人もありましたが、藤崎さんはそれほどのこともしないで、やはり普通の帷子《かたびら》をきて、大小に雪踏《せった》ばきという拵え、しかし袴は着けていません。茶屋に羽織と大小をあずけて、着ながしの丸腰で木戸を這入る。兎も角も武家である上に、毎々のおなじみですから茶屋でも粗略には扱いません。若い衆に送られて、藤崎さんは土間のお客になりました。
 たった一人の見物ですから、藤崎さんは無論
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