いので、与力は顔を突き出して怒鳴りました。
「手前は法螺をふく。」
「馬鹿。」
 与力はいきなりにその横鬢を扇でぴしゃりと撲《ぶ》たれました。撲たれた方はびっくりしていると、撲った方は苦り切って叱りつけました。
「たわけた奴だ。帰れ、帰れ。」
 相手が上役だから何うすることも出来ない。ぶたれた上に叱られて、若い与力は烟《けむ》にまかれて早々に帰りました。すると、その晩になって、組がしらから使が来て、なにがしにもう一度逢いたいから来てくれと云うのです。今度行ったらどんな目に逢うかと思ったのですが、上役からわざ/\の使ですから断るわけにも行かないので、内心びく/\もので出かけて行くと、昼間とは大違いで、組頭はにこ/\しながら出て来ました。
「いや、先刻は気の毒。どうも年をとると一徹になってな。はゝゝゝゝ。」
 だん/\聴いてみると、この組がしらの老人、ほら[#「ほら」に傍点]を吹くと云ったのを、俗に所謂ほら[#「ほら」に傍点]を吹くの意味に解釈して、大風呂敷をひろげると云うことゝ一図に思い込んでしまったのでした。武士は法螺をふくとは云わない、貝を吹くとか、貝をつかまつるとか云うのが当然で、その与力も初めはそう云ったのですが、相手にいつまでも通じないらしいので、世話に砕いて「ほら[#「ほら」に傍点]を吹く」と云ったのが間違いの基でした。役附を願うには何かの芸を申立てなければならないが、その申立ての一芸が駄法螺を吹くと云うのでは、あまりに人を馬鹿にしている、怪しからん奴だと組頭も一時は立腹したのですが、あとになってから流石にそれと気がついて、わざ/\使を遣って呼びよせて、あらためてその挨拶に及んだわけでした。
 組がしらも気の毒に思って、特別の推挙をしてくれたのでしょう、その与力は念願成就、間もなく貝の役を仰せ附かることになりました。それを聞きつたえて若い人たちは、「あいつは旨いことをした。やっぱり人間は、ほら[#「ほら」に傍点]をふくに限る。」と笑ったそうです。なんだか作り話のようですが、これはまったくの実録ですよ。

 老人の話が丁度こゝまで来たときに、表の門のあく音がして三四人の跫音がきこえた。女や子供の声もきこえた。躑躅のお客がいよ/\帰って来たらしい。わたしはそれと入れちがいに席を起つことにした。
[#改段]

権十郎の芝居

       一

 これも何かの因縁かも知れない。わたしは去年の震災に家を焼かれて、目白に逃れ、麻布に移って、更にこの三月から大久保百人町に住むことになった。大久保は三浦老人が久しく住んでいたところで、わたしが屡※[#二の字点、1−2−22]こゝに老人の家をたずねたことは、読者もよく知っている筈である。
 老人は已にこの世にいない人であるが、その当時にくらべると、大久保の土地の姿もまったく変った。停車場の位置もむかしとは変ったらしい。そのころ繁昌した躑躅園は十余年前から廃《すた》れてしまって、つゝじの大部分は日比谷公園に移されたとか聞いている。わたしが今住んでいる横町に一軒の大きい植木屋が残っているが、それはむかしの躑躅園の一つであるということを土地の人から聞かされた。してみると、三浦老人の旧宅もこゝから余り遠いところではなかった筈であるが、今日ではまるで見当が付かなくなった。老人の歿後、わたしは滅多にこの辺へ足を向けたことがないので、こゝらの土地がいつの間にどう変ったのか些《ちっ》ともわからない。老人の宅はむかしの百人組同心の組屋敷を修繕したもので、そこには杉の生垣に囲まれた家が幾軒もつゞいていたのを明かに記憶しているが、今日その番地の辺をたずねても杉の生垣などは一向に見あたらない。あたりにはすべて当世風の新しい住宅や商店ばかりが建ちつゞいている。町が発展するにしたがって、それらの古い建物はだん/\に取毀されてしまったのであろう。
 昔話――それを語った人も、その人の家も、みな此世から消え失せてしまって、それを聴いていた其当時の青年が今やこゝに移り住むことになったのである。俯仰今昔の感に堪えないとはまったく此事で、この物語の原稿をかきながらも、わたしは時々にペンを休めて色々の追憶に耽ることがある。むかしの名残で、今でもこゝらには躑躅が多い。わたしの庭にも沢山に咲いている。その紅い花が雨にぬれているのを眺めながら、今日もその続稿をかきはじめると、むかしの大久保があり/\と眼のまえに浮んでくる。
 いつもの八畳の座敷で、老人と青年とが向い合っている。老人は「権十郎の芝居」という昔話をしているのであった。

 あなたは芝居のことを調べていらっしゃるようですから、今のことは勿論、むかしのことも好く御存じでしょうが、江戸時代の芝居小屋というものは実に穢い。今日の場末の小劇場だって昔にくらべれば遙かに立派なも
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