たのですが、それでも途中で気がついて、ふところに忍ばせてある落城の譜の一巻を竊《そっ》と路ばたの川のなかへ投げ込みました。夜のことで、幸いに誰にも覚られず、殊にそこは山川の流れがうず巻いて、深い淵のようになっている所であったので、巻物は忽ちに底ふかく沈んでしまいました。
三
城内へ引っ立てられて、森垣さんは厳重の吟味をうけましたが、月のよいのに浮かれて山へのぼり、低く吹いているつもりの貝の音が次第に高くなって、お城の内外をさわがしたる罪は重々おそれ入りましたと申立てたばかりで、落城の譜のことはなんにも云いませんでした。家老はどうも普通の貝の音でないと云うのですが、所詮は素人で、それがなんの譜であるかと云うことは確かに判りません。もと/\秘曲のことですから、ほかに知っている者のあろう筈はありません。もしそれが落城の譜であると知れたら、どんな重い仕置をうけるか判らなかったのですが、何分にも無証拠ですから、森垣さんはとう/\強情を張り通してしまいました。それでも唯では済みません。夜中みだりに貝を吹きたてゝ城下をさわがしたという廉で、お役御免のうえに追放を申渡されました。
森垣さんは飛んだことをしたと今更後悔しましたが、どうにも仕方がない。それでも独り身の気安さに、ふだんから親くしている人達から内証で恵んでくれた餞別の金をふところにして、兎にかくも江戸へ出て来たというわけです。落城の譜が祟って森垣さん自身が落城することになったのも、なにかの因縁かも知れません。
「いや、一生の不覚、面目次第もござらぬ。」と、森垣さんも額を撫でていました。
こう判ってみると、わたくしも気の毒になりました。屋敷をしくじったと云っても、別に悪いことをしたと云うのでもない。この先、いつまでも浪人しているわけにも行くまいから、なんとか身の立つようにしてあげたいと思ってだん/\相談すると、森垣さんは再び武家奉公をする気はないという。しかしこの人は字をよく書くので、手習の師匠でもはじめては何うだろうと云うことになりました。幸いわたくしの町内に森垣さんという手習の師匠があって、六七十人の弟子を教えていましたが、これはもう老人、先年その娘のお政というのに婿を取ったのですが、折合がわるくて離縁になり、二度目の婿はまだ決らないので、娘は二十六になるまで独身でいる。こゝへ世話をしたら双方の都
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