巻物を膝の上にひろげて、森垣さんは大きい法螺の貝を口にあてました。その時は、もう命はいらないほどに嬉しかったそうです。前に云った足柄山の新羅三郎と時秋とを一人で勤めるような形で、森垣さんはしずかに吹きはじめました。夜ではあり、山路ではあり、こゝらを滅多に通る者はありません。たまに登ってくる者があったところで、それが何という譜を吹いているのか、とても素人に聞き分けられる筈はないので、森垣さんも多寡をくゝっていました。
それでもやはり気が咎めるので、初めの中は努めて低く吹いていたのですが、月はいよ/\明るくなる、吹く人もだん/\興に乗ってくる。森垣さんは我をわすれて、喉一ぱいに高く/\吹き出すと、夜がおい/\に更けて、世間も鎮まって来たので、その貝の音は三里半をへだてた城下まで遠くきこえました。
その晩は月がいゝので、殿様は城内で酒宴を催していました。もう夜がふけたからと云って席を起とうとしたときに、彼の貝の音がきこえたので、殿様も耳をかたむけました。家来達も顔を見合せました。幕末で世間がなんとなく騒がしくなっていましたが、まさかに隣国から不意に攻めよせて来ようとは思われないので、今ごろ何者が貝をふくのかと、いずれも不思議に思いました。家来達がすぐに櫓にかけ上って、貝の音のきこえる方角を聞きさだめると、それは城下から三里あまりを隔てゝいる山の方角であることが判りました。なんにもせよ、夜陰に及んで妄りに貝をふきたてゝ城下をさわがす曲者《くせもの》は、すぐ召捕れという下知があったところへ、家老のなにがしが俄に殿の御前へ出て、容易ならぬことを言上しました。
「唯今きこえまする貝の音は一通りの音色ともおぼえませぬ。」
勿論、それが落城の譜であるか何うかは確かに判らなかったのですが、さすがは家老でも勤めている人だけに、それが尋常の貝の音ではないことだけは覚ったとみえたのです。扨そうなると、騒ぎはいよ/\大きくなって、召捕の人数がすぐに駈け向かうことになりました。
そんなことゝは些《ちっ》とも知らない森垣さんは、吹くだけ吹いて満足して、年来の胸のかたまりが初めて解けたような心持で、足も軽く戻って来る途中、召捕の人数に出逢いました。貝を持っているのが証拠で、なんとも云いぬけることが出来ず、森垣さんはその場から城内へ引っ立てられました。これはしまったと、森垣さんももう覚悟をきめ
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