で、内職の鯉や鰻だけではなか/\内証が苦しい。したがって、下女に払う一年一両の給金すらも兎角とゞこおり勝になるのですが、お幾は些とも厭な顔をしないで、まえにも云う通り、見得にも振りにも構わずに、世帯のことから畑の仕事まで精出して働くのですから、まったく徳用向きの奉公人でした。
「お帰りなさいまし。」
 くゞり戸を推して這入る音をきくと、お幾はすぐに傘をさして迎いに出て来て、主人の手から重いびく[#「びく」に傍点]をうけ取って水口の方へ持って行く。阿部さんも簑笠でぐっしょり濡れていますから、これも一緒に水口へまわると、お幾は蝋燭をつけて来て、大きい盥に水を汲み込んで、びく[#「びく」に傍点]の魚を移していたが、やがて小声で「おやっ」と云いました。
「旦那さま。どうしたのでございましょう。びく[#「びく」に傍点]のなかにこんなものが……。」
 手にとって見せたのは黄楊《つげ》の櫛なので、阿部さんも思わず口のうちで「おやっ」と云いました。それはたしかに例の櫛です。三度目にも川のなかへ抛り込んで来た筈だのに、どうしてそれが又自分のびく[#「びく」に傍点]のなかに這入って来たのか。それとも同じような櫛が幾枚も落ちていて、何かのはずみでびく[#「びく」に傍点]のなかに紛れ込んだのかも知れないと思ったので、阿部さんは別にくわしいことも云いませんでした。
「そんなものが何うして這入ったのかな。掃溜へでも持って行って捨てゝしまえ。」
「はい。」
 とは云ったが、お幾は蝋燭のあかりでその櫛をながめていました。そうして、なんと思ったか、これを自分にくれと云いました。
「まだ新しいのですから、捨てゝしまうのは勿体のうございます。」
 櫛を拾うのは苦を拾うとか云って、むかしの人は嫌ったものでした。お幾はそんなことに頓着しないとみえて、自分が貰いたいという。阿部さんは別に気にも止めないで、どうでも勝手にするがいゝと云うことになりました。きょうは獲物が多かったので、盥のなかには鮒や鯰やうなぎが一杯になっている。そのなかには可成りの目方のありそうな鰻もまじっているので、阿部さんもすこし嬉しいような心持で、その二三匹をつかんで引きあげて見ているうちに、なんだかちくり[#「ちくり」に傍点]と感じたようでしたが、それなりに手を洗って居間へ這入りました。夕飯の支度は出来ているので、お幾はすぐに膳ごしらえを
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