なかでその櫛を今更のように透して見ました。油じみた女の櫛、誰でもあんまり好い感じのするものではありません。殊にそれが川のなかから出て来たことを考えると、ます/\好い心持はしないわけです。隠亡堀《おんぼうぼり》の直助権兵衛という形で、阿部さんはその櫛をじっと眺めていると、どこからかお岩の幽霊のような哀れな声が又きこえました。
「置いてけえ。」
 今までは知らなかったが、それではこゝが七不思議の置いてけ堀であるのかと、阿部さんは屹《きっ》と眼を据えてそこらを見まわしたが、暗い水の上にはなんにも見えない、細い雨が音もせずにしと/\と降っているばかりです。阿部さんは再び自分の臆病を笑って、これもおれの空耳であろうと思いながら、その櫛を川のなかへ投げ込みました。
「置いていけと云うなら、返してやるぞ。」
 釣竿とびく[#「びく」に傍点]を持って、笑いながら行きかけると、どこかで又よぶ声がきこえました。
「置いてけえ。」
 それをうしろに聞きながして、阿部さんは平気ですた/\帰りました。

       二

 小身と云っても場末の住居《すまい》ですから、阿部さんの組屋敷は大縄《おおなわ》でかなりに広い空地を持っていました。お定まりの門がまえで、門の脇にはくゞり戸がある。両方は杉の生垣で、丁度唯今のわたくしの家《うち》のような恰好に出来ています。門のなかには正面の玄関口へ通うだけの路を取って、一方はそこで相撲でも取るか、剣術の稽古でもしようかと云うような空地《あきち》、一方は畑になっていて、そこで汁の実の野菜でも作ろうというわけです。阿部さんはまだ独身で、弟の新五郎は二三年まえから同じ組内の正木という家へ養子にやって、当時はお幾という下女と主従二人暮しでした。
 お幾という女は今年二十九で、阿部さんの両親が生きているときから奉公していたのですが、嫁入先があるというので、一旦ひまを取って国へ帰ったかと思うと、半年ばかりで又出て来て、もとの通りに使って貰うことになって、今の阿部さんの代まで長年《ちょうねん》しているのでした。容貌《きりょう》はまず一通りですが、幾年たっても江戸の水にしみない山出しで、その代りにはよく働く。女のいない世帯のことを一手に引受けて、そのあいだには畑も作る。もと/\小身のうえに、独身で年のわかい阿部さんは、友だちの附合や何かで些《ちっ》とは無駄な金もつかうの
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