け堀だって何処のことだか確かには判らないのです。御承知の通り、本所は堀割の多いところですから、堀と云ったばかりでは高野山で今道心《いまどうしん》をたずねるようなもので、なか/\知れそうもありません。元来この置いてけ堀というにも二様の説があります。その一つは、その辺に悪《わる》旗本の屋敷があって、往来の者をむやみに引摺り込んでいかさま[#「いかさま」に傍点]博奕をして、身ぐるみ脱いで置いて行かせるので、自然に置いてけ堀という名が出来たというのです。もう一つは、その辺の堀に何か怪しい主《ぬし》が棲んでいて、日の暮れる頃に釣師が獲物の魚をさげて帰ろうとすると、それを置いて行けと呼ぶ声が水のなかで微かにきこえると云うのです。どっちがほんとうか知りませんが、後の怪談の方が広く世間に伝わっていて、わたくし共が子供のときには、本所へ釣に行ってはいけない、置いてけ堀が怖いぞと嚇《おど》かされたものでした。
その置いてけ堀について、こんなお話があります。嘉永二年|酉歳《とりどし》の五月のことでした。本所入江町の鐘撞堂の近辺に阿部久四郎という御家人がありまして、非番の時にはいつでも近所の川や堀へ釣に出る。と云うと、大変に釣道楽のようにもきこえますが、実はそれが一つの内職で、釣って来た鯉や鮒はみんな特約のある魚屋へ売ってやることになっているのです。武士は食わねど高楊枝などと云ったのは昔のことで、小身の御家人たちは何かの内職をしなければ立ち行きませんから、みなそれぞれに内職をしていました。四谷怪談の伊右衛門のように傘を張るのもあれば、花かんざしをこしらえるのもある。刀をとぐのもあれば、楊子を削るのもある。提灯を張るのもある。小鳥を飼うのもあれば、草花を作るのもある。阿部という人が釣に出るのも矢はりその内職でしたが、おなじ内職でも刀を磨いたり[#「磨いたり」は底本では「磨いだり」]、魚を釣ったりしているのは、まあ世間体のいゝ方でした。
五月は例のさみだれが毎日じめ/\降る。それがまた釣師の狙い時ですから、阿部さんはすっかり簑笠のこしらえで、びく[#「びく」に傍点]と釣竿を持って、雨のふるなかを毎日出かけていましたが、今年の夏はどういうものか両国の百本|杭《ぐい》には鯉の寄りがわるい。綾瀬の方まで上るのは少し足場が遠いので、このごろは専ら近所の川筋をあさることにしていました。そこで、五月の
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