たのですが、どういう魔がさしたものか、その奥様が用人神原伝右衛門のせがれ伝蔵と不義を働いていることが主人の耳にも薄々這入ったらしいので、ふたりも落ちついてはいられません。伝蔵の身よりの者が奥州白河にあるので一先ずそこへ身を隠すつもりで、内々で駈落の支度をしていました。その時、伝蔵は二十歳、奥さまのお睦は二十三で、むすめのお金は年弱の三つ、弟の庄之助はこの春生れたばかりの赤ん坊であったそうです。
 年下の家来と駈落をするほどの奥様でも、ふだんから姉娘のお金をひどく可愛がっていたので、この子だけは一緒に連れて行きたいという。これには伝蔵もすこし困ったでしょうが、なにしろ主人で年上の女のいうことですから、結局承知してお金だけを連れ出すことになりました。十二月の十三日、きょうは煤はきで屋敷中の者も疲れて眠っている。その隙をみて逃げ出そうという手筈で、男と女は手まわりの品を風呂敷づつみにして、お金の手をひいて夜なかに裏門からぬけ出しました。年弱の三つという女の児を歩かせてゆくわけには行きませんから、表へ出るとお睦はお金を背中に負いました。伝蔵は荷物を背負《しょ》いました。大川づたいに綾瀬の上《かみ》へまわって、千住から奥州街道へ出るつもりで、男も女も顔をつゝんで石原から大川端へ差しかゝると、生憎に今夜は月があかるいので、駈落をするには都合のわるい晩でした。おまけに筑波おろしが真向《まとも》に吹きつけて来る。ふたりは一生懸命にいそいでゆくと、うしろで犬の吠える声がきこえる。人の跫音もきこえました。
 脛に疵持つふたりは若《もし》や追手かと胸を冷したが、なにぶんにも月が明るいので何うすることも出来ない。むやみに急いで多田の薬師の前まで来ると、うしろから弦の音が高くきこえて、伝蔵は背中から胸へ射徹されたから堪りません。そのまゝばったり倒れました。お睦はおどろいて介抱しようとするところへ、二の矢が飛んで来てその襟首から喉を射ぬいたので、これも二言と云わずに倒れてしまいました。
 不義者ふたりを射留めたのは、主人の桜井衛守です。かねて二人の様子がおかしいと眼をつけていたので、弓矢を持ってすぐに追いかけて来て、手練の矢先で難なく二人を成敗してしまったのです。伝蔵もお睦も急所を射られて、ひと矢で往生したのですが、おふくろに負われていたお金だけは助かりました。しかしお睦の襟首に射込んだ矢がお
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