き付けたかと思うと、いきなりに刀をひきぬいて振りまわした。
「それ抜いたぞ。」
 抜いたらば早く逃げればいゝのですが、大勢の中にはごろつきもいる。喧嘩好きの奴もいるので、相手が刀をぬいたと見てその腕をおさえ付けようとする者がある。下駄をぬいで撲ろうとする者がある。ひどい奴はどこからか水を持って来て、侍の顔へぶっかけるのがある。こうなると、若い侍は一生懸命です。もう何の容赦も遠慮もなしに、抜いた刀をむやみに振りまわして、手あたり次第に斬りまくる。たちまちに四五人はそこに斬り倒されたので、流石の大勢もぱっと開く。その隙をみて侍は足早にそこを駈け抜けてしまいました。
「人殺しだ、人殺しだ。」
 たゞ口々に騒ぎ立てるばかりで、もうその跡を追う者もない。侍のすがたが見えなくなってから、騒ぎはいよ/\大きくなりました。なにしろ即死が三人手負が五人で、手負のなかにもよほど手重いのが二人ほどあるというのですから大変です。勿論、式《かた》の通りに届けて検視をうけたのですが、その下手人は誰だか判らない。場所が場所ですから、神明の八人斬というので、忽ち江戸中の大評判になりました。

       二

 お金のおふくろのお幸《こう》というのが今度の事件について先ずお調べを受けました。神明の境内で起った事件ですから、寺社奉行の係です。彼の若侍がお金を連れ出したという疑いから、こんな騒動が持ちあがったのですから、どうしてもお金とその侍との関係を詮議する必要がある。そうすれば、自然にお金のゆくえも判り、侍の身許もわかるに相違ないというので、お金のおふくろは片門前の裏借家から家主《いえぬし》同道で呼び出されました。
 お金の主人から問い合せがあった時には、お幸はなんにも知らないようなことを云っていました。今度の呼び出しを受けても、最初はやはり曖昧のことを云っていたのですが、だん/\に吟味が重なって来ると、もう隠してもいられないので、とう/\正直に申立てました。お金は桜井|衛守《えもり》という三百五十石取りの旗本のむすめで、彼の矢がすりには斯ういう因縁があるのでした。
 桜井衛守というのは本所の石原に屋敷を持っていて、弓の名人と云われた人でした。奥さまはお睦《むつ》と云って夫婦のあいだにお金と庄之助という子供がありました。衛守という人も立派な男振り、お睦も評判の美人、まことに一対の夫婦と羨まれてい
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