分も正月の末から持病のリュウマチスで寝たり起きたりしていたが、此頃はよほど快《よ》くなったとのことであった。そう聞くと、自分の怠慢がいよ/\悔まれるような気がして、わたしはその返事をうけ取った翌日の朝、病気見舞をかねて大久保へ第二回の訪問を試みた。第一回の時もそうであったが、今度はいよ/\路がわるい。停車場から小一町をたどるあいだに、わたしは幾たびか雪解のぬかるみに新しい足駄を吸取られそうになった。目おぼえの杉の生垣の前まで行き着いて、わたしは初めてほっとした。天気のいい日で、額には汗が滲んだ。
「この路の悪いところへ……。」と、老人は案外に元気よくわたしを迎えた。「粟津の木曽殿で、大変でしたろう。なにしろこゝらは躑躅《つゝじ》の咲くまでは、江戸の人の足|蹈《ぶ》みするところじゃありませんよ。」
 まったく其頃の大久保は、霜解と雪解とで往来難渋の里であった。そのぬかるみを突破してわざ/\病気見舞に来たというので、老人はひどく喜んでくれた。リュウマチスは多年の持病で、二月中は可なりに強く悩まされたが、三月になってからは毎日起きている。殊にこの四五日は好い日和がつゞくので、大変に体《からだ》の工合がいゝという話を聴かされて、わたしは嬉しかった。
「でも、このごろは大久保も馬鹿に出来ませんぜ。洋食屋が一軒開業しましたよ。きょうはそれを御馳走しますからね。お午過ぎまで人質ですよ。」
 こうして足留めを食わして置いて、老人は打ちくつろいで色々のむかし話をはじめた。次に紹介するのもその談話の一節である。

 このあいだは桐畑の太夫さんのお話をしましたが、これもやはり旗本の一人のお話です。これは前の太夫さんとは段ちがいで、おなじ旗本と云っても二百石の小身、牛込の揚場《あげば》に近いところに屋敷を有《も》っている今宮六之助という人です。この人が嘉永の末年に御用道中で大阪へゆくことになりました。大阪の城の番士を云い付かって、一種の勤番の格で出かけたのです。よその藩中と違って、江戸の侍に勤番というものは無いのですが、それでも交代に大阪の城へ詰めさせられます。大阪城の天守が雷火に焚《や》かれたときに、そこにしまってある権現様の金の扇の馬標《うまじるし》を無事にかつぎ出して、天守の頂上から堀のなかへ飛び込んで死んだという、有名な中川|帯刀《たてわき》もやはりこの番士の一人でした。
 そんな
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