ないと云いました。今朝から一杯も酒を飲んだことはないと云ったのですが、源七はその背中の肉を撫でて見て、少しかんがえました。
「いえ、酒の気があります。酒を飲まないにしても、味淋の這入ったものを何か喫《た》べたでしょう。少しでも酒の気があっては、彫れませんよ。」
酒と違って、味淋は普通の煮物にも使うものですから、果して食ったか食わないか、自分にもはっきり[#「はっきり」に傍点]とは判らない。これには清吉も些《ちっ》と困った。
「味淋の気があっても不可ませんか。」
「不可ません。すこしでも酔っているような気があると、墨はみんな散ってしまいます。」
刺青師が無分別の若者を扱うには、いつも此の手を用いるのだそうです。この論法で、きょうも不可《いけ》ない、あしたも不可ないと云って、二度も三度も追い返すと、しまいには相手も飽きて、来なくなる。それでも強情に押掛けてくる奴には、先ず筋彫りをすると云って、人物や花鳥の輪廓を太い線で描く。その場合にはわざと太い針を用いて、精々痛むようにちくり[#「ちくり」に傍点]/\と肉を刺すから堪らない。大抵のものは泣いてしまいます。縦令《よしん》ば歯を食い縛って堪えても、身体の方が承知しないで、きっと熱が発《で》る、五六日は苦しむ。これで大抵のものは降参してしまうのです。源七もこの流儀で、味淋の気があるを口実にして、一旦は先ず体よく清吉を追い返したのですが、なか/\この位のことで諦めるのではない。あくる日もその明くる日も毎日毎日根よく押掛けて来るので、源七|老爺《じい》さんも仕舞には根負けをしてしまって、それほど執心ならば兎もかくも彫ってみましょうという事になりました。
そこで源七は先ず筋彫りにかゝった。一体なにを彫るのかと云って雛形の手本をみせると、清吉は「嵯峨や御室《おむろ》」の光国と滝夜叉を彫ってくれと云う注文を出しました。おなじ刺青でも二人立と来ては大仕事で、殊に滝夜叉は傾城《けいせい》の姿ですから、手数がなか/\かゝる。無論、手間賃は幾らでもいゝと云うのですが、この男の痩せた生白い背中に、それほど手の込んだ二人立が乗る訳のものではないので、もう些《ちっ》と軽いものをと色々に勧めたのですが、清吉はどうしても肯かない。是非とも「嵯峨や御室」を頼むと強情を張るので、源七はまた弱らせられました。併しあとで考えると、それにも一応理窟のあるこ
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