に割込みです。そのころの平土間一枡は七人詰ですから、ほかに六人の見物がいる。たとい丸腰でも、髪の結い方や風俗でそれが武家か町人か十分に判りますから、おなじ枡の人たちも藤崎さんに相当の敬意を払って、なるだけ楽に坐らせてくれました。ほかの六人も一組ではありません、四人とふたりの二組で、その一組は町家の若夫婦と、その妹らしい十六七の娘と、近所の人かと思われる二十一二の男、ほかの一組は職人らしい二人連でした。この二組はしきりに酒をのみながら見物している。藤崎さんも少しは飲みました。
いつの代の見物人にも俳優《やくしゃ》の好き嫌いはありますが、とりわけて昔はこの好き嫌いが烈しかったようで、自分の贔屓俳優は親子兄弟のように可愛がる。自分の嫌いな俳優は仇のように憎がるというわけで、俳優の贔屓争いから飛んでもない喧嘩や仲|違《たが》いを生じることも屡※[#二の字点、1−2−22]ありました。ところで、この藤崎さんは河原崎権十郎が嫌いでした。権十郎は家柄がいゝのと、年が若くて男前がいゝのとで、御殿女中や若い娘達には人気があって「権ちゃん、権ちゃん」と頻りに騒がれていたが、見巧者《みごうしゃ》連のあいだには余り評判がよくなかった。藤崎さんも年の割には眼が肥えているから、どうも権十郎を好かない。いや、好かないのを通り越して、あんな俳優は嫌いだと不断から云っているくらいでした。
その権十郎が今度の狂言では合邦《がっぽう》と立場《たてば》の太平次をするのですから、権ちゃん贔屓は大涎れですが、藤崎さんは少し納まりません。権十郎が舞台へ出るたびに、顔をしかめて舌打をしていましたが、仕舞にはだん/\に夢中になって、口のうちで、「あゝまずいな、まずいな。下手な奴だな。この大根め」などと云うようになった。それが同じ枡の人たちの耳に這入ると、四人連れのうちの若いおかみさんと妹娘とが顔の色を悪くしました。この女たちは大の権ちゃん贔屓であったのです。そのとなりに坐っていて、権十郎はまずいの、下手だのとむやみに罵っているのだから堪りません。おかみさんも仕舞には顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》に青い筋をうねらせて、自分の亭主にさゝやくと、めん鶏勧めて雄鶏が時を作ったのか、それとも亭主もさっきから癪に障っていたのか、藤崎さんにむかって「狂言中はおしずかに願います。」と咎めるように云いまし
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