郎という人がありました。二百俵ほど取っていた組与力で、年はまだ二十一、阿母《おっか》さんと中間《ちゅうげん》と下女と四人暮しで、先ず無事に御役をつとめていたのですが、この人に一つの道楽がある。それは例の芝居好きで、どこの座が贔屓だとか、どの俳優《やくしゃ》が贔屓だとか云うのでなく、どこの芝居でも替り目ごとに覗きたいというのだから大変です。ほかの小遣いはなるたけ倹約して、みんな猿若町へ運んでしまう。侍としてはあまり好《い》い道楽ではありません。いつぞやお話をした桐畑の太夫――あれよりはずっと[#「ずっと」に傍点]優《ま》しですけれども、やはり世間からは褒められない方です。
それでも阿母《おっか》さんは案外に捌けた人で、いくら侍でも若いものには何かの道楽がある。女狂いよりは芝居道楽の方がまだ始末がいゝと云ったようなわけで、さのみにやかましく云いませんでしたから、本人は大手をふって屋敷を出てゆく。そのうちに一つの事件が出来《しゅったい》した。というのは、文久二年の市村座の五月狂言は「菖蒲合仇討講談《しょうぶあわせあだうちこうだん》」で、合邦《がっぽう》ヶ辻に亀山の仇討を綴じあわせたもの。俳優《やくしゃ》は関三《せきさん》に団蔵、粂三郎、それに売出しの芝翫、権十郎、羽左衛門というような若手が加わっているのだから、馬鹿に人気が好い。二番目は堀川の猿まわしで、芝翫の与次郎、粂三郎のおしゅん、羽左衛門の伝兵衛、おつきあいに関三と団蔵と権十郎の三人が掛取りを勤めるというのですから、これだけでも立派な呼び物になります。その辻番附をみただけでも、藤崎さんはもうぞく/\して初日を待っていました。
なんでも初日から五六日目の五月十五日であったそうです。藤崎さんは例の通りに猿若町へ出かけて行きました。さっきも申す通り、家から着がえを抱えて行く人もあり、前以て芝居町の近所の知人の家へあずけて置いて、そこで着かえて行く人もありましたが、藤崎さんはそれほどのこともしないで、やはり普通の帷子《かたびら》をきて、大小に雪踏《せった》ばきという拵え、しかし袴は着けていません。茶屋に羽織と大小をあずけて、着ながしの丸腰で木戸を這入る。兎も角も武家である上に、毎々のおなじみですから茶屋でも粗略には扱いません。若い衆に送られて、藤崎さんは土間のお客になりました。
たった一人の見物ですから、藤崎さんは無論
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