行こうという。田島さんにせき立てられて、奥さんに挨拶もそこそこにして出る。停車場に駈けつけると、汽車はいま出るところなり。二人はころげるようにして漸く乗り込むと、夏の鳥打《とりうち》帽をかぶりたる三十前後の小作りの男がわれわれよりも先に乗っていて、田島さんを見て双方無言で挨拶する。やがて彼は田島さんにむかいて「あなたも御出張ですか。」といえば、田島さんはうなずいて「御同様に忙がしいことが出来ました。」という。それを口切りに、二人のあいだにはいろいろの会話が交換されたり。だんだん聞けば、予の留守のあいだに、日光の町にいたましき事件が突発して、かの磯貝満彦という青年紳士が何者にか惨殺されたるなり。
 兇行は昨夜八時頃より今暁《こんぎょう》四時頃までのあいだに仕遂げられたらしく、磯貝は銘仙《めいせん》の単衣《ひとえもの》の上に絽《ろ》の羽織をかさねて含満《がんまん》ヶ|渕《ふち》のほとりに倒れていたり。両手にて咽喉《のど》を強く絞められたらしく、ほかには何の負傷の痕もなし。また別に抵抗を試みたる形跡もなきは、その薄羽織の少しも破れざるを見ても察せられる。かれは片手にステッキを持っていたれど、
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