郊外生活の一年
大久保にて
岡本綺堂
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)陰《くも》って
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二時間|乃至《ないし》
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(例)[#地から1字上げ](大正十四年四月)
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震災以来、諸方を流転して、おちつかない日を送ること一年九ヵ月で、月並の文句ではあるが光陰流水の感に堪えない。大久保へ流れ込んで来たのは去年の三月で、もう一年以上になる。東京市内に生まれて、東京市内に生活して、郊外というところは友人の家をたずねるか、あるいは春秋の天気のいい日に散歩にでも出かける所であると思っていた者が、測らずも郊外生活一年の経験を積むことを得たのは、これも震災の賜物といっていいかも知れない。勿論、その賜物に対してかなりの高価を支払ってはいるが……。
はじめてここへ移って来たのは、三月の春寒がまだ去りやらない頃で、その月末の二十五、二十六、二十七の三日間は毎日つづいて寒い雨が降った。二十八日も朝から陰《くも》って、ときどきに雪を飛ばした。わたしの家の裏庭から北に見渡される戸山が原には、春らしい青い色はちっとも見えなかった。尾州侯の山荘以来の遺物かと思われる古木が、なんの風情もなしに大きい枯枝を突き出しているのと、陸軍科学研究所の四角張った赤煉瓦の建築と、東洋製菓会社の工場に聳《そび》えている大煙突と、風の吹く日には原一面に白く巻きあがる砂煙と、これだけの道具を列《なら》べただけでも大抵は想像が付くであろう、実に荒凉索莫、わたしは遠い昔にさまよい歩いた満洲の冬を思い出して、今年の春の寒さが一《ひ》としお身にしみるように感じた。
「郊外はいやですね」と、市内に住み馴れている家内の女たちはいった。
「むむ。どうも思ったほどに好くないな」と、わたしも少しく顔をしかめた。
省線電車や貨物列車のひびきも愉快ではなかった。陸軍の射的場のひびきも随分騒がしかった。戸山が原で夜間演習のときは、小銃を乱射するにも驚かされた。湯屋の遠いことや、買物の不便なことや、一々かぞえ立てたら色々あるので、わたしもここまで引込んで来たのを悔むような気にもなったが、馴れたらどうにかなるだろうと思っているうちに、郊外にも四月の春が来て、庭にある桜の大木二本が満開になった。枝は低い生垣を越えて往来へ高く突き出しているので、外から遠く見あげると、その花の下かげに小さく横たわっている私の家は絵のようにみえた。戸山が原にも春の草が萠え出して、その青々とした原の上に、市内ではこのごろ滅多《めった》に見られない大きい鳶《とび》が悠々と高く舞っていた。
「郊外も悪くないな」と、わたしはまた思い直した。
五月になると、大久保名物の躑躅《つつじ》の色がここら一円を俄《にわか》に明るくした。躑躅園は一軒も残っていないが、今もその名所のなごりを留めて、少しでも庭のあるところに躑躅の花を見ないことはない。元来の地味がこの花に適しているのであろうが、大きい木にも小さい株にも皆めざましい花を着けていた。わたしの庭にも紅白は勿論、むらさきや樺色の変り種も乱れて咲き出した。わたしは急に眼がさめたような心持になって、自分の庭のうちを散歩するばかりでなく、暇さえあれば近所をうろついて、そこらの家々の垣根のあいだを覗《のぞ》きあるいた。
庭の広いのと空地の多いのとを利用して、わたしも近所の人真似《ひとまね》に花壇や畑を作った。花壇には和洋の草花の種を滅茶苦茶にまいた。畑には唐蜀黍《とうもろこし》や夏大根の種をまき、茄子《なす》や瓜の苗を植えた。ゆうがおの種も播《ま》き、へちまの棚も作った。不精者のわたしに取っては、それらの世話がなかなかの面倒であったが、いやしくも郊外に住む以上、それが当然の仕事のようにも思われて、わたしは朝晩の泥いじりを厭《いと》わなかった。六月の梅雨のころになると、花壇や畑には茎や蔓《つる》がのび、葉や枝がひろがって、庭一面に濡れていた。
夏になって、わたしを少しく失望させたのは、蛙の一向に鳴かないことであった。筋向うの家の土手下の溝で、二、三度その鳴き声を聴いたことがあったが、そのほかには殆《ほとん》ど聞こえなかった。麹町《こうじまち》辺でも震災前には随分その声を聴いたものであるが、郊外のここらでどうして鳴かないのかと、わたしは案外に思った。蛍も飛ばなかった。よそから貰った蛍を庭に放したが、その光は一と晩ぎりで皆どこかへか消え失せてしまった。さみだれの夜に、しずかに蛙を聴き、ほたるを眺めようとしていた私の期待は裏切られた。その代りは犬は多い。飼犬と野良犬がしきりに吠えている。
幾月か住んでいるうちに、買い物の不便にも馴れた。電車や鉄砲の音にも驚かなくなっ
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