言ったそうだが……。」と。庄五郎は意味ありげに言った。「四郎兵衛さんにも何か怨まれる訳があるのだろう。ともかくも再び藤沢を通らない方が無事だ。」
「お前さんはいつお帰りです。」と、義助は訊いた。
「わたし達はあした帰る。お前たちも一緒に連れて行ってやりたいが、藤沢の一件があるから道連れは困る。又ぞろ何かの間違いがあると、わたしばかりでなく、講中一同が迷惑する。お前たちは鎌倉をまわって帰りなさい。」
 繰返して言い聞かせて、庄五郎は恵比寿屋の門口《かどぐち》で義助に別れた。その意味ありげな言葉によって想像すると、お安という女が四郎兵衛を悩ましたのは、気違いでなく、人違いでなく、何か相当の子細があるに相違ないと義助は思った。
 小泉の店は旧家で、大名屋敷や旗本屋敷へも出入りをしている。菓子商売のほかに地所や家作《かさく》を持っていて、身上《しんしょう》もいい。主人はまだ若い。四年前に嫁を貰って無事に暮らしているが、独り者の頃には多少の道楽もしたように聞いている。世間によくあるためしで、主人は船宿の女と夫婦《みょうと》約束でもして置きながら、それを反古《ほご》にして他から嫁を貰った。お安という女はそれを怨んでいて、ここで測らずも出会ったのを幸いに、さざえのつぶての仇討となったかも知れない。果してそうであれば、傍杖《そばづえ》を食ったおかみさんと自分はともあれ、主人が痛い目をみるのは是非ない事かとも思われた。いずれにしても元来た道を引っ返すのは危険である。庄五郎の忠告にしたがって、鎌倉をまわって帰るのが無事あろうと、義助は宿へ帰ると直ぐにお杉を別座敷へ呼んだ。
 義助の話を聞いて、お杉も眉を皺めた。誰の考えも同じことで、かのお安がそういう素姓の女であれば、おそらく何かの約束を破って自分を振り捨てたという怨みであろうと、お杉も想像した。しかも今更そんな論議をしても仕方がない。差しあたりは危険を避けて鎌倉へまわるに如《し》くはないと、かれも義助の意見に同意することになった。
 雨は降りつづけている。この頃の長い日も早く暮れて、宿の女中が燭台を運んで来た。海の音もだんだんに高くなった。
「お江戸の小泉さんの旦那にお目にかかりたいと申して、女の人が見えました。」
 女中の取次を聞いて、お杉と義助は顔を見合せた。殊にそれが女であるというので、二人は何だかぎょっとした。
「どんな女です。」と、お杉は念のために訊いた。
「二十二、三の人で、藤沢から来たといえば判るということでございました。この雨のなかをびしょ濡れになって……。」
 二人はいよいよ薄気味悪くなった。この雨のなかをびしょ濡れになって藤沢から追って来た以上、なにかの覚悟があるに相違ない。今度はさざえの殻ぐらいでなく、短刀か匕首《あいくち》でも忍ばせて来たかも知れない。それを思うと、二人は魔物に魅《みこ》まれたように怖ろしくなって来た。
「どうしたもんだろう。」と、お杉は途方に暮れたようにささやいた。
「そうですねえ。」
 義助も返事に困ったが、この場合、家来の身として主人の矢おもてに立つのほかはないと決心した。
「よろしゅうございます。わたくしが行って、どんな用か聞いてみましょう。」
「お前、気をおつけよ。」と、お杉は不安らしく言った。
 思い切って起《た》ち上がろうとする義助を、四郎兵衛は呼びとめた。彼はいつのまにか目を醒ましていたのである。
「義助、お待ち……。藤沢から来た女はわたしが会おう。」
「いいかえ。お前が会っても……。」と、お杉はいよいよ不安らしく言った。
「義助はなんにも知らないのですから、会ったところでどうにもなりません。わたしが会います。」
 四郎兵衛は直ぐに起きあがって、女中と共に梯子を降りて行った。お杉と義助は又もや顔を見合せた。どう考えても不安である。
 そこへ又、女中が引っ返して来た。
「あの、旦那さまが仰しゃいましたが、どなたも決して下へお出でにならないように……。」
「承知しました。」と言って、女中を去らせたあとで、お杉は義助に又ささやいた。「して見ると、やっぱり覚えがあるのだね。出先で多分の用意もないが、金で済むことなら何とでも話を付けるか……。」
「旦那も大かたそのつもりでしょう。」
「そうだろうねえ。」
 四郎兵衛は容易に戻って来なかった。それが円満に解決した為か、それとも談判がむずかしい為かと、二人は息をつめてその成行きを案じていると、やがて、遠い下座敷で立ち騒ぐような物音がきこえた。人の叫ぶような声も洩れた。
「おまえ、行って御覧よ。」と、お杉はあわてて言った。
 もう堪《たま》らなくなって、義助は梯子を駈けおりて行くと、一人の女が宿屋の若い者らに押しすくめられて、表へ突き出されているのであった。距離が遠いので確かには判らなかったが、その女のうしろ姿は藤沢のお安らしかった。かれは表へ突き出されて、降りしきる雨のなかに姿を消した。
 四郎兵衛は腫れあがった顔を蒼くして、二階座敷へ戻って来た。
 夕飯の膳が運び出されたが、彼は碌ろくに箸を執らなかった。何をきいても確かな返事をしなかった。
「子細はあとで話します。」
 開帳の賑わいで、どこの宿屋も混雑している。この一行の座敷は海にむかった角《かど》にあるが、それでも一方の隣り座敷には三、四人の客が泊り合せていて、昼から騒々しく話したり笑ったりしている。それらの聞く耳を憚って、四郎兵衛は迂濶にその秘密を明かさないらしかったが、となりの人たちはしゃべり疲れて、宵から早く床に就いたので、その寝鎮まるのを待って、彼は小声で話し出した。
「今までおっかさんにも黙っていました。義助はもちろん知るまい。どうも困った事があるのです。」
「お前はあの女に係合いであったのかえ。」と、お杉は待ちかねたように訊いた。
「いえ、そういう事なら又何とかなりますが……。」
 四郎兵衛の低い溜息の声を打消すように、夜の海の音はごうごうと高くきこえた。

     三

 前にもいう通り、小泉は暖簾のふるい菓子屋で、大名屋敷や旗本屋敷に幾軒の出入り先を持っていた。殊に大名屋敷に出入りしているのは、店の名誉でもあり、利益でもあるから、大切に御用を勤めること勿論である。中国筋の某藩の江戸屋敷に香川甚五郎という留守居役があって、平素から四郎兵衛を贔屓《ひいき》にしていた。
 その甚五郎があるとき四郎兵衛にささやいた。
「四郎兵衛、気の毒だが、おまえに一つ働いてもらいたいことがある。肯《き》いてくれるか。」
「代々のお出入り、殊にあなた様のお頼みでござりますなら、何なりとも御用を勤めましょう。」と、四郎兵衛は即座に請合った。それは今から四年前のことで、かれが二十二歳の春であった。
「おまえはちっと道楽をするそうだが、近所の三十間堀の喜多屋という船宿を知っているだろう。」
「存じております。」
「おれも知っている。あすこにお安という小綺麗な女がいる……。いや、早合点するな。おれに取持ってくれというのではない。あの女のからだを借りたいのだ。」
 甚五郎の説明によると、そのお安という女を写生したいというのである。顔は勿論、全身を赤はだかにして、手足から乳のたぐいに至るまでいっさいを写生する――今日のモデルとは意味が違って、いわば一種の春画である。それは幕府の役人に贈る秘密の賄賂で、金銭は珍しくない、普通の書画骨董類ももう古い。なにか新奇の工夫をと案じた末に、思い付いたのが裸体美人の写生画で、それを立派に表装して箱入りの贈り物にする。箱をあけて見て、これは妙案と感心させる趣向である。しかもその女が芸者や遊女では面白くない。さりとて堅気の娘がそんな注文に応ずる筈がない。結局、商売人と素人との中を取って、茶屋女のような種類に目をつけたのであるが、それとても選択がむずかしい。容貌《きりょう》がいいだけでもいけない。容貌もよし、姿も整って、年も若く、なるべく男を知らない女などという種々の注文をならべ立てると、その候補者はなかなか見いだせない。たとい見いだされたとしても、本人が不承知であればどうにもならない。
 その選択に行き悩んで、白羽《しらは》の矢を立てたのが喜多屋のお安であった。お安はそのころ十九の若い女で、すぐれた美人というのではないが、目鼻立ちの整った清らかな顔の持主で、背格好も肉付きもまず普通であった。船宿などに奉公する女であるから、どこか小粋《こいき》でありながら、下卑ていない。身持もよくて、これまでに浮いた噂もないという。それらの条件に合格したのが、お安の幸か不幸か判らなかったが、ともかくも甚五郎はかれに目を付けた。
 しかし問題が問題であるだけに、甚五郎はお安にむかって直接談判を開くことを躊躇した。彼は四郎兵衛をたのんで、その口からお安を口説き落させようと考えたのである。
「喜多屋の女房に頼んでもいいが、あいつは少し質《たち》のよくない奴だ。そんなことを根にして後《あと》ねだりなどをされるとうるさい。又その噂が世間へ洩れても困る。これはお安ひとりを相手の相談にしなければならない。他人にはいっさい秘密だ。」
 難儀の役目を言い付けられて、四郎兵衛も困った。しかも代々の出入り屋敷といい、平素から世話になっている留守居役が折り入って頼むのを、すげなく断るわけにもいかないので、彼はとうとうこの難役を引受けた。そして、どうにかこうにか本人のお安を説き伏せて、二十両の裸代を支払うことに取決めた。
 甚五郎も満足して万事の手筈を定め、お安は藤沢の叔母が病気だという口実で、主人の喜多屋から幾日かの暇を貰って、浅草辺の或る浮世絵師の家に泊り込むことになった。その絵師のことは四郎兵衛もよく知らないが、おそらく甚五郎から高い画料を受取ったのであろう。絵はとどこおりなく描きあがって、その出来栄えのいいのに甚五郎はいよいよ満足した。約束の二十両は四郎兵衛の手を経てお安に渡された。
 これでこの一件は無事に済んだ筈であるが、それから半年ほどの後に、お安はなんと思ったか、四郎兵衛にむかって、二十両の金を返すからあの裸体画を取戻してくれと言い出した。その絵はどこへ行ったか知らないが、甚五郎の手許に残っていないことは判っているので、四郎兵衛はそのわけを言って聞かせたが、お安はどうしても承知しない。自分のあられもない姿が世に残っているかと思うと、恥かしいと情けないとで、居ても立ってもいられないような気がする。是非ともあの裸体画を取戻して焼き捨ててしまわなければ、自分の気が済まないというのである。勿論お安が最初から素直に承知したのではない、忌《いや》がるものを無理に納得させたのであるが、ともかくも承知して万事を済ませた後、今更そんなことを言い出されては困る。それを甚五郎に取次いだところで、どうにもならない事は判り切っている。あるいは後《あと》ねだりをするのかと思って、四郎兵衛はさらに十両か十五両の金をやるといったが、お安は肯かない。自分の方から二十両の金を突きつけて、どうしても返してくれと迫るのであった。
 それは無理だといろいろに賺《すか》しても宥《なだ》めても、お安は肯かない。かれは顔色を変えて、さながら駄駄ッ子か気違いのように迫るのである。四郎兵衛も年が若いので、しまいには我慢が出来なくなった。
「これほど言って聞かせても判らなければ、勝手にしろ。」
「勝手にします。あたしは死にます。」
 二人は睨み合って別れた。それから幾日かの後に、お安は喜多屋から突然に姿を消した。まさかに死んだのではあるまいと思いながらも、四郎兵衛はあまりいい心持がしなかった。その後に甚五郎に会った時に、彼はお安に手古摺《てこず》った話をすると、甚五郎は笑った。
「それは困ったろう。あの絵は偉い人のところに納まっているのだから、取返せるものではない。しかし不思議なことがある。あれを描いた絵師はこのあいだ頓死をしたよ。お安に執殺《とりころ》されたのかな。」
 絵師の死はお安が喜多屋を立去ったのちの出来事であるのを知って、四郎兵衛は又もや忌《いや》な心持になった。
「今度はお互いの番だ。
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