して出て来ているのだが、なんだか気がかりでならねえ。」
「そりゃ困ったな。あの雨のふるのにどこへ行ったのだろう。」
「それを詮議しても素直に言わねえ。江戸の客を追っかけて江の島へ行ったらしいのだが……。」
「なにしろ大事にしろよ。」
「おお。」
二人は挨拶して別れた。牛の上でそれを聞いていた四郎兵衛は、自分の顔の傷を隠したくなった。お杉も義助も逃げ出したいような心持になった。
「おまえの家《うち》に何か病人があるのかね。」と、四郎兵衛は探るように訊いた。
「はあ、わたしの女房の姪《めい》ですよ。」と、男は牛をひきながら答えた。「今もいう通りだ。ゆうべから急に風邪を引いて、熱が出て、なんだか死にそうで、困っていますよ。」
「おまえの家はどこだ。」
「藤沢ですよ。少し遠いが、商売だから仕方がねえ。朝早くから牛を牽いて、鎌倉まで出て来ましたのさ。」
「おまえの姪は茶店でも出しているのかえ。」
「そうですよ。よく知っていなさるね。」
男は思わず振返って、牛の上をみあげると、その途端に、牛は高く吼《ほ》えた。四郎兵衛は物におびえたように身をふるわせて、牛の背から突然にころげ落ちた。牛から落ちた話を聞かないと男は言ったが、それを裏切るように、彼は真っ逆さまにころげ落ちたのである。馬とは違って、牛の背は低い。それから地上に落ちたところで、さしたる事もあるまいと思われるが、四郎兵衛はそのまま気絶してしまった。
牛方の男もおどろいたが、お杉と義助はさらに驚かされた。男は近所から清水を汲んで来て、四郎兵衛にふくませた。三人の介抱で、四郎兵衛はようように息を吹きかえしたが、夢みる人のようにぼんやりしていた。
折りよくそこへ一挺の駕籠が通り合せたので、お杉と義助は四郎兵衛を駕籠に乗せかえた。牛方の男には金沢までの駄賃を払って、ここから帰してやることにした。男はひどく気の毒がって、幾たびか詫びと礼を言った。
「わたしの牛は今まで一度もお客を落したことはねえのに、どうしてこんな粗相《そそう》を仕出かしたのか。まあ、どうぞ勘弁しておくんなせえ。」
お杉は罪ほろぼしのような心持で、この男の姪に幾らかの療治代でも恵んでやりたかったが、迂濶なことをして覚えられては悪いと思い直して、それはやめた。なんにも知らないらしいかの男は、詫びと礼とを繰返して言った。
牛と別れて、二人はほっとした。傷寒
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