ろ姿は藤沢のお安らしかった。かれは表へ突き出されて、降りしきる雨のなかに姿を消した。
四郎兵衛は腫れあがった顔を蒼くして、二階座敷へ戻って来た。
夕飯の膳が運び出されたが、彼は碌ろくに箸を執らなかった。何をきいても確かな返事をしなかった。
「子細はあとで話します。」
開帳の賑わいで、どこの宿屋も混雑している。この一行の座敷は海にむかった角《かど》にあるが、それでも一方の隣り座敷には三、四人の客が泊り合せていて、昼から騒々しく話したり笑ったりしている。それらの聞く耳を憚って、四郎兵衛は迂濶にその秘密を明かさないらしかったが、となりの人たちはしゃべり疲れて、宵から早く床に就いたので、その寝鎮まるのを待って、彼は小声で話し出した。
「今までおっかさんにも黙っていました。義助はもちろん知るまい。どうも困った事があるのです。」
「お前はあの女に係合いであったのかえ。」と、お杉は待ちかねたように訊いた。
「いえ、そういう事なら又何とかなりますが……。」
四郎兵衛の低い溜息の声を打消すように、夜の海の音はごうごうと高くきこえた。
三
前にもいう通り、小泉は暖簾のふるい菓子屋で、大名屋敷や旗本屋敷に幾軒の出入り先を持っていた。殊に大名屋敷に出入りしているのは、店の名誉でもあり、利益でもあるから、大切に御用を勤めること勿論である。中国筋の某藩の江戸屋敷に香川甚五郎という留守居役があって、平素から四郎兵衛を贔屓《ひいき》にしていた。
その甚五郎があるとき四郎兵衛にささやいた。
「四郎兵衛、気の毒だが、おまえに一つ働いてもらいたいことがある。肯《き》いてくれるか。」
「代々のお出入り、殊にあなた様のお頼みでござりますなら、何なりとも御用を勤めましょう。」と、四郎兵衛は即座に請合った。それは今から四年前のことで、かれが二十二歳の春であった。
「おまえはちっと道楽をするそうだが、近所の三十間堀の喜多屋という船宿を知っているだろう。」
「存じております。」
「おれも知っている。あすこにお安という小綺麗な女がいる……。いや、早合点するな。おれに取持ってくれというのではない。あの女のからだを借りたいのだ。」
甚五郎の説明によると、そのお安という女を写生したいというのである。顔は勿論、全身を赤はだかにして、手足から乳のたぐいに至るまでいっさいを写生する――今日のモデルとは
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