坐らせて、その膝のうえに石の板を積むので、石は伊豆石にかぎられ、長さ三尺、厚さ三寸、目方は一枚十三貫である。吉五郎はその石五枚を積まれたが、やはり強情に黙っていた。
 元来、徳川時代の拷問はいかなる罪人に対しても行うことを許されていない。それは死罪以上に相当すると認められた罪人にのみ限られている。即ち所詮は殺すべき罪人に対してのみ拷問を行うことを許されているのであるから、拷問の際にあやまって責め殺しても差支えないことになっているが、その罪状の決定しないうちに本人を殺してしまうことは努めて避けなければならない。前にもいう通り、拷問を加えるということが已《すで》に係り役人の不面目であるのに、更に未決のうちに責め殺してしまったとあっては、いよいよ彼らの不名誉をかさねる道理であるから、かれらは一面に惨酷の拷問を加えていながらに、一面には罪人を殺すまいと思っている。その呼吸を呑み込んでいる罪人は、自分の体力の堪え得るかぎりはあくまでもその苦痛を忍んで強情を張り通そうとするのである。吉五郎もその一人であった。彼は生に対する強い執着心からこうして一日でも生きていようとしたのか、あるいは召捕または吟味の際に係り役人に対して何かの強い反感をいだいて、意地づくでも白状しまいと覚悟したのか、それは判らない。しかし彼が寃罪《えんざい》でないことは明白であった。
 吉五郎は八月十一日によび出されて、第二回の拷問をうけた。それは前回とおなじく、笞打(記録には縛《しば》り敲《たた》きとある。笞打と同意義である)のほかに石五枚を抱かされたが、かれはやはり問に落ちなかった。第三回は九月十六日で、かれは笞打のほかに石六枚を抱かされた。第四回は同月十九日で、笞打ほかに石七枚を抱かされた。拷問の回数のすすむにしたがって、石の数がだんだんと殖《ふ》えてくるのであった。
 第五回は十月二十一日で、例のごとく拷問に取りかかろうとする時、かれは俄《にわか》に「申上げます、申上げます」と叫んだ。そうして、自分の罪状を一切自白したので、拷問は中止された。彼はそのままで牢屋へ下げられた。これで彼の運命は一旦定まったのであるが、間もなく病気にかかったという牢屋医者からの届け出があったので、その仕置は来春まで延期されて、かれは暗い牢獄のなかで天保六年の春を迎えた。
 三月になって、かれの病気は全快した。それと同時に、彼は去
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