途中で遭ったそうです。差している傘が石のように重くなって、ひと足も歩くことができなくなったので、持前の芸を出して、傘を差したまま宙返りをすると、かわうそが大地に叩きつけられて死んでいた、ということです。
日比谷の亀も有名でした。桜田見附から日比谷へ行く濠の底に大きい亀が棲《す》んでいたということで、この亀が浮き出すと濠一杯になったと言い伝えられています。亀が浮くと、龍《たつ》の口《くち》の火消屋敷の太鼓を打つことになっていました。その太鼓の音に驚いて、大亀は沈んでしまうといいます。しかし、その亀を見た者はないようです。
蝦蟇や朝顔屋敷など
麻布の蝦蟇《がま》池(港区元麻布二丁目一〇番)、この池は山崎|主税之助《ちからのすけ》という旗本の屋敷の中にありましたが、ある夏の夕暮でした。ここへ来客があって、池に向かった縁側のところで、茶を飲みながら話をしていましたが、そこへ置いてある菓子器の菓子が、夕闇の中をふいふいと池の方へ飛んでゆきます。二人は不思議に思って、菓子の飛んでゆく方へ眼をつけますと、池の中に大きな蝦蟇がいて、その蝦蟇が菓子を吸っているのでした。主人主税之助はひどく立腹して「翌日は池を替え、乾かしてしまう」と言いました。
するとその夜、主税之助が寝ているところへ池の蝦蟇がやって来まして、「どうか助けてくれ」と頼みました。そうして、「もし火事などのある場合には、水を吹いて火事を防ぐから」というようなことをいいました。
しかし、主税之助は、「ただ火事の時に水を吹いて火を消すというだけではいけない。それは俺《おれ》の一家の利益に過ぎない。なにか広い世間のためになることをするというならば許してやろう」といいますと、蝦蟇は、「では、火傷《やけど》の呪《まじない》を教えましょう」といって、火傷の呪を教えてくれたそうで、その伝授に基いて、山崎家から「上の字」のお守を出していました。それが不思議に利くそうです。
お守りは熨斗形《のしがた》の小さいもので、表面《おもて》に「上」という字を書いてその下に印を押してあります。その印のところで火傷を撫《な》でるのですが、なんでも印のところに秘方の薬がつけてあるということです。
錦袋円《きんたいえん》の娘、池の端《はた》(いまの台東区池之端一丁目一番、同上野二丁目一一・一二番)に錦袋円という有名な薬屋がありました。ここの娘は弁天様の申し子であったそうですが、ちょうど十八の時に不忍《しのばず》の池に入って池の主の大蛇になったと言い伝えられています。それが明治の初め頃まで不忍の池に棲《す》んでいたそうですが、明治になってから印旛沼《いんばぬま》の方へ移ってしまったといいます。
化物屋敷、これはとても数えきれません。一町内に一軒くらいずつはあったようです。まずその一例を挙げると、こんなものです。
朝顔屋敷、牛込の中山という旗本の屋敷ですが、ここでは絶対に朝顔を忌《い》んでいました。朝顔の花はもちろん、朝顔の模様、または朝顔類似のものでも、決して屋敷の中へは入れなかったということです。
それがために庭掃除をする仲間《ちゅうげん》が三人いて、夏になると毎日、庭の草を抜き捨てるのに忙しかったそうです。それは屋敷の中に朝顔の生えるのを恐れるからで、これほどに朝顔を忌む理由というのは、なんでも祖先のある人が妾《てかけ》を切った時に、妾の着ていた着物の模様に朝顔がついていたそうで、その後、この屋敷の中で朝顔を見ると、火事に遭うとか、病人がでるとか、お役御免になるとかで、きっと不祥のことが続いたということです。
百物語、これは槍、剣術の先生の宅などでよく催されましたが、一種の胆《きも》だめしです。これは御承知の通り、まず集まった人の数だけの灯心を行灯に入れて、順々に怪談を一席ずつ話して、一人の話が終わるごとに灯心を一本ずつ消してゆくのです。そして庭の淋しそうなところに、矢などを立てておいて、それを取りに行くそうですが、最後の灯心を消すと、なにか化物が出ると言い伝えられていました。
こんなのを一々数えていたら際限がありませんから、まずこのくらいのところにしておきましょう。
[#地付き](大正十一年二月、贅六堂刊『風俗江戸物語』所収)
底本:「伝奇ノ匣2 岡本綺堂妖術伝奇集」学研M文庫、学習研究社
2002(平成14)年3月29日初版発行
底本の親本:「風俗江戸物語」贅六堂
1922(大正11)年2月
入力:川山隆
校正:門田裕志
2008年9月23日作成
青空文庫作成ファイル:
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