りません。」
「それじゃあわたしも一緒に行くが、いいかえ。」
その日も朝から細雨《こさめ》が降っていたが、暮れ六つごろからやんだ。店口は人出入りが多いので、お峰親子は裏木戸から抜け出すと、文次郎は路地口に待合せていて、二人の先に立って行った。高輪の海岸は目の先である。
時刻はやがて五つ(午後八時)に近い頃で、雲切れのした大空には金色の星がまばらに光っていた。海辺の茶屋はとうに店を締めてしまった。この頃は世の中が物騒になって、辻斬《つじぎ》りがはやるという噂があるので、まだ宵ながらここらの海岸に人通りも少なかった。品川がよいのそそり節《ぶし》もきこえなかった。
三人は海岸に立って暗い海をながめた。文次郎も確かには憶えていないが、大方ここらであったろうと、提灯をかざして教えると、お妻はひざまずくように身をかがめて、両手をあわせた。かれは海にむかって何事をか祈っているらしかった。お峰も文次郎も目を放さずに、その行動を油断なく窺っていると、お妻は暫くのあいだ身動きもしなかった。寒い夜風が三人の鬢《びん》を吹いて通った。
闇をゆるがす海の音は、凄まじいようにどうどうと響いて、足もとの石垣
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