て、三之助の話は本当であるらしいと言った。
嘘も本当もない、いっさいは伯父が白状しているのである。そこで夫婦は額をあつめて、密々の相談に時を移したが、ここで自分たちが強情を張り通して、みすみす万屋の店を潰してしまうのは、親類一門として忍びないことである。それがこの時代の人々の弱い人情であった。さらに困るのは、お妻が嫁入りのことを町内じゅうでもすでに知っているのである。それを今更破談にするのは世間のきこえがよくない。あるいはそれがいろいろの邪魔になって、さなきだに縁遠い娘を一生|瑕物《きずもの》にしてしまうおそれがないともいえない。
「もうこの上は仕方がない。そのわけをお妻によく言い聞かせて、当人の料簡《りょうけん》次第にしたらどうだ。当人が承知なら決める、いやならば断わる。それよりほかない。」と、由兵衛は言った。
お峰もそれに同意して、早速お妻を呼んで相談すると、かれは案外素直に承知した。
「横浜から帰るときに、あのお婆さんが経帷子を置いて行ったのも、所詮《しょせん》こうなる因縁でしょう。まして見合も済み、結納も済んだのですから、わたしも思い切って井戸屋へ参ります。」
三
当人がいさぎよく決心している以上、両親ももうかれこれ言う術《すべ》はなかった。むしろ我が子に励まされたような形にもなって、躊躇《ちゅうちょ》せずに縁談を進行することにした。万屋の伯父夫婦は再び涙をながして喜んだ。
待つような、待たないような年は早く明けて、正月二十二日は来た。この年は初春早々から雨が多くて、寒い日がつづいた。なんといっても、近江屋は土地の旧家であるから、同業者は勿論、町内の人々も祝いに来て、二、三日前から混雑していた。いよいよ輿入れという日の前夜に、お妻は文次郎を呼んでささやいた。
「去年あの経帷子を流したのは海辺《うみべ》のどこらあたりか、お前はおぼえているだろう。今夜そっと私を連れて行ってくれないか。」
文次郎は何だか不安を感じたので、その場はいったん承知して置きながら、お峰にそれを密告したので、かれも一種の不安を感じた。よもやとは思うものの、いよいよあしたという今夜に迫って、万一身投げでもされたら大変であると恐れた。
「おまえは海辺へ何しに行くのだえ。」と、お峰は娘をなじるように訊いた。
「唯ちょいと行ってみたいのです。決して御心配をかけるような事はありません。」
「それじゃあわたしも一緒に行くが、いいかえ。」
その日も朝から細雨《こさめ》が降っていたが、暮れ六つごろからやんだ。店口は人出入りが多いので、お峰親子は裏木戸から抜け出すと、文次郎は路地口に待合せていて、二人の先に立って行った。高輪の海岸は目の先である。
時刻はやがて五つ(午後八時)に近い頃で、雲切れのした大空には金色の星がまばらに光っていた。海辺の茶屋はとうに店を締めてしまった。この頃は世の中が物騒になって、辻斬《つじぎ》りがはやるという噂があるので、まだ宵ながらここらの海岸に人通りも少なかった。品川がよいのそそり節《ぶし》もきこえなかった。
三人は海岸に立って暗い海をながめた。文次郎も確かには憶えていないが、大方ここらであったろうと、提灯をかざして教えると、お妻はひざまずくように身をかがめて、両手をあわせた。かれは海にむかって何事をか祈っているらしかった。お峰も文次郎も目を放さずに、その行動を油断なく窺っていると、お妻は暫くのあいだ身動きもしなかった。寒い夜風が三人の鬢《びん》を吹いて通った。
闇をゆるがす海の音は、凄まじいようにどうどうと響いて、足もとの石垣にくだけて散る浪のしぶきは夜目にもほの白くみえた。その浪を見つめるように、お妻は頭をあげたかと思うと、たちまちに小声で叫んだ。
「あれ、そこに……。」
文次郎は思わず提灯をさし付けた。お峰も覗いた。灯のひかりと潮のひかりとに薄あかるい浪の上に、白いような物が漂っているのを見つけて、二人はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした。それがかの経帷子であるらしく思われたからである。お峰は言い知れない恐怖を感じて、無言で文次郎の袖をひくと、彼もその正体を見届けようとして、幾たびか提灯を振り照らしたが、白い物の影はもう浮かび出さなかった。
お妻は海にむかって再び手を合せた。
その翌日、お妻はめでたく井戸屋へ送り込まれた。井戸屋の若主人は果たして養子で、その名を平蔵といった。先代の主人夫婦は、二、三年前に引きつづいて世を去ったので、新嫁《にいよめ》になんの気苦労もなかった。夫婦の仲も睦まじかった。
「これで何事もなければ、申分はないのですがねえ。」と、お峰は夫にささやいた。
由兵衛もひそかに無事を祈っていた。この年の二月に、年号は文久と改まったのである。去年の桜田事変以来、世の中はますますおだ
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