、低い貸船屋も大きい栗の木もみな宵闇のなかに沈んで、河の上が唯うす白く見えるばかりでした。どこかで笛の声が遠くきこえました。ホテルへ帰ると、われわれの部屋にも蝋燭が点してありました。
 ホテルの庭にも大きい栗の木があります。いつの間に空模様が変ったのか、夜なかになると雨の音がきこえました。枕もとの蝋燭を再び点して、カアテンの間から窓の外をのぞくと、雨の雫は栗の葉をすべって、白い花が暗いなかにほろほろと落ちていました。
 夜の雨、栗の花、蝋燭の火、アーヴィングの宿った家――わたしは日本を出発してから曾て経験したことのないような、しんみりとした安らかな気分になって、沙翁の故郷にこの一夜を明かしました。明くる朝起きてみると、庭には栗の花が一面に白く散っていました。
[#地から1字上げ](大正八年五月、倫敦にて)



底本:「世界紀行文学全集 第三巻 イギリス編」修道社
   1959(昭和34)年7月20日発行
入力:門田裕志
校正:小林繁雄
2006年7月3日作成
青空文庫作成ファイル:
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