の塔には薄むらさきの藤の花がからみ付いていることを、私は昼のうちに見て置きました。
 船は好加減のところまで下ったので、更に方向を転じて上流の方へ遡ることになりました。灯の少いここらの町はだんだん薄暗く暮れて来て、栗の立木も唯一と固まりの暗い影を作るようになりましたが、空と水とはまだ暮れそうな気色もみえないので、水明りのする船端には名も知れない羽虫の群が飛び違っています。白鳥はどこの巣へ帰ったのか、もう見えなくなりました。起き直って、巻莨を一本すって、その喫殻を水に投げ込むと、恰もそれを追うように一つの白い花がゆらゆらと流れ下って来ました。透してみると、それは栗の花でした。
[#天から2字下げ]栗の花アヴォンの河を流れけり
 句の善悪は扨措いて、これは実景です。わたしは幾たびか其句を口のうちで繰返しているあいだに、船は元の岸へ戻って来ました。両君は櫂を措いて出ると、私もつづいて出ました。貸船屋の奥には黄い蝋燭が点っています。亭主が出て来て、大きい手の上に船賃をうけ取って、グードナイトと唯一言、ぶっきらぼう[#「ぶっきらぼう」に傍点]に云いました。岸へあがって五六間ゆき過ぎてから振返ると
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