「よしてくれたまえ。いけない、いけない。」と、田宮は一生懸命に制していた。
 表二階はどの座敷も満員で、夜のふけるまで笑い声が賑かにきこえていたが、下座敷のどん詰まりにあるこの二組の座敷には、わざわざたずねて来る人のほかには誰も近寄らなかった。廊下をかよう女中の草履の音も響かなかった。かの竹垣の裾からは虫の声が涼しく湧き出して、音もなしに軽くなびいている芒の葉に夜の露がしっとりと降りているらしいのが、座敷を洩れる電燈のひかりに白くかがやいて見えた。三人は寝転んでしゃべっていたが、その話のちょっと途切れた時に、田宮は吸いかけの巻きたばこを煙草盆の灰に突き刺しながら、俄かに半身を起こした。
「あ、あれを見たまえ。」
 二人はその指さす方角に眼をやると、縁側の上に、一匹の小さな蟹が這っていた。それは、ゆうべの蟹とおなじように、五色にひかった美しい甲を持っていた。田宮は物にうなされたように、浴衣の襟をかきあわせながら起き直った。
「どうしてあの蟹がまた出たろう。」
「ゆうべの蟹は一体どうしたろう。」と、遠泉君は言った。
「なんでも隣りの連中が庭へ捨ててしまったらしい。」と、本多は深く気に留めな
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