湯気がもやもやと籠っていて、電燈のひかりも陰っている。なにしろ午前二時という頃だから、おそらく誰もはいっている気遣いはないと思って、僕は浴衣をぬいで湯風呂の前へすたすたと歩いて行くと、大きい風呂のまん中に真っ白な女の首がぼんやりと浮いてみえた。今頃はいっている人があるのかと思いながらよく見定めると、それは児島亀江の顔に相違ないので、僕も少し躊躇したが、もう素っぱだかになってしまったもんだから、御免なさいと挨拶しながら遠慮なしに熱い湯の中へずっとはいると、どういうものか僕は急にぞっと寒くなった。と思うと、今まで湯の中に浮いていた女の首が俄かに見えなくなってしまった。ねえ、僕でなくっても驚くだろう。僕は思わずきゃっ[#「きゃっ」に傍点]と声をあげそうになったのをやっとこらえて、すぐに湯から飛び出して、碌々にぬれた身体も拭かずに逃げて来たんだが、どう考えてもそれが判らない。けさになって見ると、児島亀江という女は平気であさ飯を食っている。いや、僕の見違いでない、たしかにあの女だ。たといあの女でないとしても、とにかく人間の首が湯の中にふわふわと浮いていて、それが忽ちに消えてしまうという理屈がない。いくら考えても、僕にはその理屈が判らないんだ。」
「君は馬鹿だね。」と、本多は笑い出した。「君は何か忌な夢を見たというじゃあないか。その怖いこわいという料簡があるもんだから、湯気のなかに何か変なものが見えたのさ。海のなかの霧が海坊主に見えるのと同じ理屈だよ。さもなければ、君があの女のことばかりを考えつめていたもんだから、その顔が不意と見えたのさ。もしそれを疑うならば、直接にあの女に訊いてみればいい。ゆうべの夜なかに風呂へ行っていたかどうだか、訊いて見ればすぐ判ることじゃないか。」
「いや。訊くまでもない。実際、風呂にはいっていたならば、突然に消えてしまう筈がないじゃないか。」と、遠泉君は傍から啄《くち》を出した。「結局は夢まぼろしという訳だね。おい、田宮君。まだそれでも不得心ならば今夜も試しに行って見たまえ。」
「いや、もう御免だ。」
田宮が身をすくめているらしいのは、暗いなかでも想像されたので、二人は声をあげて笑った。暗い石段を降りて、もとの海岸づたいに宿へ帰ると、となりの座敷では女たちの話し声がきこえた。
「おい、田宮君。ゆうべのことを訊いてやろうか。」と、本多はささやいた。
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