って、借金は出来る、やけ酒を飲むというわけで、ますます落目になって来た。その由兵衛の耳にはいったのが両国の『虎の子』で、友蔵の小屋は毎日大入りだという評判。余人ならばともあれ、自分のかたきと睨んでいる友蔵の観世物が大当りと聞いては、今のわが身に引きくらべて由兵衛は残念でならない。恨みかさなる友蔵めに、ここで一泡吹かせてやろうと考えた。
 由兵衛も同商売であるから、インチキ仲間の秘密は承知している。千里の藪で生捕りましたる虎の子が本物でないことは万々察している、そこで先ずその正体を見きわめてやろうと思って、手拭に顔をつつんで、普通の観客とおなじように木戸銭を払ってはいったが、素人と違って耳も眼も利いているから、虎の正体は大きい猫であって、その啼き声をごまかすために銅鑼や太鼓を叩き立てるのだという魂胆を、たちまちに看《み》破ってしまった。」
「その次の幕はゆすり場ですね。」
「話の腰を折っちゃあいけない。しかしお察しの通り、由兵衛は一旦自分の家へ引揚げて、日の暮れるのを待って本所番場の裏長屋へたずねて行った。
 十一月十日、その日は朝から陰って、時々にしぐれて来る。このごろは景気がいいので、友蔵も幸吉もどこへか飲みに出かけて、お常ひとり留守番をしている。思いも付かない人がたずねて来たので、お常もすこし驚いたが、まさかにいやな顔も出来ないので、内へ入れてしばらく話していると、由兵衛は例の虎の子の一件を言い出した。
 その種を割って世間へ吹聴すれば、折角の代物《しろもの》に疵が付く、人気も落ちる。由兵衛はそれを匂わせて、幾らかいたぶるつもりで来たのだ。
 これにはお常も困った。折角大当りを取っている最中に、つまらない噂を立てられては商売の邪魔になる。もう一つにはお常も人情、むかしは世話になった由兵衛が左前《ひだりまえ》になっているのを知ると、さすがに気の毒だという念も起る。殊にこのごろは自分たちの懐《ふところ》も温かいので、お常は気前よく十両の金をやった。それには虎の子の口留めやら、むかしの義理やら、いろいろの意味が含まれていたのだろうが、十両の金を貰って、由兵衛はよろこんだ。せいぜい三両か五両と踏んでいたのに、十両を投げ出されたのだから文句はない。由兵衛は礼をいって素直に帰った。
 長屋の路地から表へ出ると、丁度そこへ友蔵が帰って来た。二人がばったり顔をあわせると、由兵衛は友蔵にむかって、『やあ、友さん、久しぶりだ。実は今おかみさんから十両貰って来た。どうも有難う』と、礼をいうのか、忌がらせをいうのか、こんな捨台詞《すてぜりふ》を残して立去った。それを聞かされて、友蔵はおもしろくない。急いで家へ帰って来て、なぜ由兵衛に十両の金をやったと、女房のお常を責める。お常は虎の子の一件を話したが、友蔵の胸は納まらない。たとい口留めにしても、十両はあまり多過ぎるというのだ。
 由兵衛が他人ならば、多過ぎるというだけで済んだかも知れないが、由兵衛とお常とのあいだには昔の関係があるので、そこには一種の嫉妬もまじって、友蔵はなかなか承知しない。亭主の留守によその男を引入れて、亭主に無断で十両の大金をやるとは不埓千万だ。てめえはきっと由兵衛と不義を働いているに相違ないと、酔っている勢いでお常をなぐり付けた。すると、お常は赫《かっ》となって、そんなら私の面晴《めんばれ》に、これから由兵衛の家へ行って、十両の金を取戻して来ると、時雨の降るなかを表へかけ出した。」
「これは案外の騒動になりましたね。」
「友蔵は酔っているから、勝手にしやあがれと寝てしまった。そのあとへ幸吉が帰って来たが、これも酔っているのでぶっ倒れてしまった。その夜なかに叩き起されて、お常は山谷の由兵衛の家に死んでいるという知らせがあったので、兄弟もおどろいた。
 酒の酔いもすっかり醒めて、二人は早々に山谷へ飛んで行くと、お常は手拭で絞め殺されていた。由兵衛のすがたは見えない。
 家内の取散らしてあるのを見ると、お常を殺した上で逃亡したらしい。
 由兵衛がどうしてお常を殺したか、その事情はよく判らないが、かの十両を返せと言い、その争いから起ったことは容易に想像される。友蔵が嫉妬心をいだいていると同様に、由兵衛も嫉妬心をいだいている。むしろ友蔵以上の強い嫉妬心をいだいていたであろうから、それが一度に爆発して俄にお常を殺す気になったらしい。お常の死骸は検視の上で友蔵に引渡された。
 虎の子が飛んでもない悲劇を生み出すことになったが、それでも其の秘密は世間に洩れなかったと見えて、友蔵の小屋は相変らず繁昌していると、ここにまた一つの事件が起った。今度は大事件だ。」
「人殺し以上の大事件ですか。」
「むむ、その時代としては大事件だ。虎の子の観世物は十月から始まって、十二月になっても客は落ちない。女房に
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