った勢いで、由兵衛も大いに喜んでいると、三日ばかりの後には肝腎の鯨が腐りはじめた。
 むかしの四月なかばだから、今日《こんにち》の五月中旬で陽気はそろそろ暑くなる。あいにく天気つづきで、日中は汗ばむような陽気だから堪らない。鯨は死ぬと直ぐに腐り出すということを由兵衛らは知らない。もちろん防腐の手当なぞをしてある訳でもないから、この陽気で忽ちに腐りはじめて、その臭気は鼻をつくという始末。物見高い江戸の観客もこれには閉口して、早々に逃げ出してしまうことになる。その評判がまた広まって、観客の足は俄に止まった。
 こうなっては仕方がない。鯨よりも由兵衛の方が腐ってしまって、何か他のものと差換えるあいだ、ひとまず木戸をしめることになった。十五両の代物を三日や四日で玉無しにしたばかりか、その大きい鯨の死骸を始末するにも又相当の金を使って、いわゆる泣きッ面に蜂で、由兵衛はさんざんの目に逢った。十両盗んでも首を斬られる世の中に、十五両の損は大きい。由兵衛はがっかりしてしまった。」
「まったく気の毒でしたね。」
「それを聞いて喜んだのは友蔵と幸吉の兄弟で、手を湿《ぬ》らさずに仇討が出来たわけだ。かんがえてみると、由兵衛はかれら兄弟の恩人で、自分たちの損を受けてくれたようなものだが、兄弟はそう思わない。ただ、かたき討が出来たといって、むやみに喜んでいた。それが彼らの人情かも知れない。
 ここで関係者の戸籍調べをして置く必要がある。由兵衛は浅草の山谷《さんや》に住んでいて、ことし五十の独り者。友蔵は卅一、幸吉は廿六で、本所の番場町、多田の薬師の近所の裏長屋に住んでいる。幸吉はまだ独り身だが、兄の友蔵には、お常という女房がある。このお常に少し因縁がある。」
「以前は由兵衛の女房だったんですか。」
「いつもながら君は実に勘がいいね。表向きの女房ではないが、お常は奥山の茶店に奉公しているうちに、かの由兵衛と関係が出来て、毎月幾らかずつの手当を貰っていた。お常はまだ廿二だから、五十男の由兵衛を守っているのは面白くない。おまけに浮気の女だから、いつの間にか友蔵とも出来合って、押掛女房のように友蔵の家へころげ込んでしまった。
 由兵衛は怒ったに相違ないが、自分の女房と決まっていたわけでもないから、表向きには文句をいうことも出来なかった。しかし内心は修羅《しゅら》を燃やしている。鮫洲の鯨を横取りしたの
前へ 次へ
全10ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング