)大屋さんも困つてゐるやうだ。第一あの若けえのが可哀さうぢやあねえか。
助十 おれも可哀さうだとは思ふのだが、なにしろほかの事と違ふからな。一つ間違つた日にやあ、おれ達がどんな目に逢ふか判るめえぢやあねえか。よく考へてみろよ。
權三 むゝ。(少し躊躇する。)
彦三郎 もし、お家主樣。まだお考へは付きませんか。
六郎 (ため息をつく。)どうも困つたな。わたしも橋本町の六郎兵衞といへば、名主の玄關でも御奉行所の腰掛けでも、相當に幅のきく人間だが、こればかりは全く困つた。一旦お捌《さば》きの付いてしまつたものを、今更こつちからこぢ[#「こぢ」に傍点]返すといふのは、つまり大岡樣を相手取つて喧嘩をするやうなものだがら、こいつは並大抵のことで行く筈がない。小間物屋彦兵衞は確かに無實の罪だといふ立派な證據でもあるか、それとも罪人はほかにあると云ふ確かな證人でもない限りはなあ。(腕をくむ。)
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(權三は何か云はうとして起ちかゝるを、助十はあわててその袖をつかみ、まあ待てと制すれば、權三はまた躊躇する。)
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彦三郎 (堪へかねて。)では、どうしても出來ぬことだと仰《おつ》しやるのでござりますか。
六郎 さあ、出來ないとも限らないが、なにしろこいつは大仕事だ。わたしもこの年になるまで家主を勤めてゐるが、こんなことに出逢つたのは初めてだからな。
彦三郎 (決心して。)では、もうお頼み申しますまい。わたくしは自分の思ひ通りにいたします。(起ちかゝる。)
六郎 (彦三郎の袖を捉へる。)まあ、待ちなさい。お前さんは眼の色を變へてどうする積りだ。
彦三郎 これから御奉行所へ駈込みます。
六郎 御奉行所へかけ込む……。それはいけない。駈込み訴へは御法度《ごはつと》だ。
彦三郎 それはわたくしも存じて居りますが、もうかうなつたら致方がござりません。どんなお咎《とが》めを受けるのも覺悟の上で、駈込み訴へをいたします。どうぞ留めずに遣《や》つて下さい。(振切つて行かうとする。)
六郎 どうして無暗に遣られるものか。飛んでもないことだ。いくら年が若いと云つて急《せ》いてはいけない。まあ、待ちなさい。待ちなさい。
彦三郎 いや、放して下さい。放してください。
六郎 いけない、いけない。
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