らうことにしたいと言っていた。梶井が僕をよびに来たのは、それを見せたいためであることが判った。一種の好奇心が手伝って、僕もその黒髪と書きものとを一応見せでもらったが、その当時の僕には唯こんなものかと思ったばかりで、格別になんという考えも浮かばなかった。亡魂が祟りをなすなどは、もちろん信じられなかった。僕は梶井の父以上に文明開化の少年であった。
 書きものに「後の月見の夜」とあるから、おそらく九月十三夜の月見の宴でも開いている時、おたまという妾が家来のなにがしと密会しているのを主人に発見されて、その場で成敗されたのであろう。その命日が十三夜であるので、十三夜稲荷と呼ぶことになったらしい。以前の持主の本多は先祖代々この屋敷に住んでいたのだから、幾代か前の主人の代に、こういう事件があったものと思われる。鳥居の柱に、安政三年再建と彫ってあるのをみると、安政二年の地震に倒れたのを翌年再建したのではあるまいか。
 それからさかのぼって考えると、この事件はよほど遠い昔のことでなければならないと、梶井はいろいろの考証めいたことを言っていたが、僕はあまり多く耳を仮《か》さなかった。こんなことはどうでもいいと思っていた。したがって、その黒髪や書きものが果して寺へ送られたか、あるいは焚火の灰となったか、その後の処分について別に聞いたこともなかった。
 さて、これだけのことならば、単にこんな事があったという昔話に過ぎないのだが、まだその後談があるので、文明開化の僕もいささか考えさせられることになったのだ。
 梶井はあまり健康な体質ではないので、学校もとかく休みがちで、僕よりも一年おくれて卒業した。それから医者になるつもりで湯島の済生学舎にはいった。そのころの済生学舎は実に盛んなもので、あの学校を卒業して今日《こんにち》開業している医者は全国で幾万にのぼるとかいうことだが、あのなかには放蕩者も随分いて、よし原で心中する若い男には済生学舎の学生という名をしばしば見た。梶井もその一人で、かれは二十二の秋、吉原のある貸座敷で娼妓とモルヒネ心中を遂げてしまった。ひとり息子で、両親も可愛がっていたし、金に困るようなこともなし、なぜ心中などを企てたのか、それがわからない。しいていえば、病身を悲観したのか。あるいは女の方から誘われたのか。まずそんな解釈をくだすよりほかはなかった。
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