岡本綺堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)家《うち》は

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)きゃっ[#「きゃっ」に傍点]
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     一

 Y君は語る。

 明治十年、西南戦争の頃には、わたしの家《うち》は芝の高輪《たかなわ》にあった。わたしの家といったところで、わたしはまだ生まれたばかりの赤ん坊であったから何んにも知ろう筈はない。これは後日になって姉の話を聞いたのであるから、多少のすじみちは間違っているかも知れないが、大体の話はまずこうである――。

 今日《こんにち》では高輪のあたりも開け切って、ほとんど昔のおもかげを失ってしまったが、江戸の絵図を見ればすぐにわかる通り、江戸時代から明治の初年にかけて高輪や伊皿子《いさらご》の山の手は、一種の寺町といってもいい位に、数多くの寺々がつづいていて、そのあいだに武家屋敷がある。といったら、そのさびしさは大抵想像されるであろう。殊に維新以後はその武家屋敷の取毀《とりこわ》されたのもあり、あるいは住む人もない空屋敷《あきやしき》となって荒れるがままに捨てて置かれるのもあるという始末で、さらに一層の寂寥《せきりょう》を増していた。そういうわけであるから、家賃も無論にやすい。場所によっては無銭《ただ》同様のところもある。わたしの父もほとんど無銭同様で、泉岳寺に近い古屋敷を買い取った。
 その屋敷は旧幕臣の与力《よりき》が住んでいたもので、建物のほかに五百坪ほどの空地《あきち》がある。西の方は高い崖《がけ》になっていて、その上は樹木の生い茂った小山である。与力といってもよほど内福の家であったとみえて、湯殿はもちろん、米つき場までも出来ていて、大きい土蔵が二戸前《ふたとまえ》もある。こう書くとなかなか立派らしいが、江戸時代にもかなり住み荒らしてあった上に、聞くところによれば、主人は維新の際に脱走して越後へ行った。官軍が江戸へはいった時におとなしく帰順した者は、その家屋敷もすべて無事であったが、脱走して官軍に抵抗した者は当然その家屋敷を捨てて行かなければならない。そこで、ここの主人は他の脱走者の例にならって、その屋敷を多年出入りの商人にゆずり渡して行ったのである。この場合、ゆずり渡しというのは名義だけで、大抵はただでくれて行く。それに対して、貰った方では饒別《せんべつ》として心ばかりの金を贈る。ただそれだけのことで遣り取りが済んだのであるが、明治の初年にはこんな空屋敷を買う者もない。借りる者も少ないので、新しい持主もほとんど持てあましの形で幾年間を打捨てて置いた。
 こういう事情で建ちぐされのままになっていた空屋敷を、わたしの父がやすく買取って、それに幾らかの手入れをして住んでいたのであるから、今から考えるとあまり居ごころのよい家ではなかったらしい。第一に屋敷がだだっ広い上に、建物が甚だ古いと来ているから、なんとなく陰気で薄っ暗い。庭も広過ぎて、とても掃除や草取りが満足には出来そうもないというので、庭の中程に低い四目垣《よつめがき》を結って、その垣の内だけを庭らしくして、垣の外はすべて荒地にして置いたので、夏から秋にかけてはすすきや雑草が一面に生い茂っている。万事がこのていであるから、その荒涼たる光景は察するに余りありともいうべきであるが、その当時は東京市中にもこんな化物屋敷のような家がたくさんに見いだされたので、世間の人も居住者自身も格別に怪しみもしなかったらしい。
 わたしの家《うち》ばかりでなく、周囲の家々もまず大同小異といった形で、しかも一方には山や森をひかえているのであるから、不用心とか物騒とかいうことは勿論であると思わなければならない。人間ばかりでなく、種々の獣《けもの》も襲ってくるらしい。現に隣りの家では飼い鶏をしばしば食い殺された。それは狐か狢《むじな》の仕業であろうということであった。夕方のうす暗いときに、なんだか得体《えたい》のわからない怪獣がわたしの家の台所をうかがっていたといって、年のわかい女中が悲鳴をあげて奥へ逃げ込んで来たこともあった。夏になると、蛇がむやみに這い出して、時には軒先からぶらりと長く下がって来ることがある。まったく始末におえない。
 前置きが少し長くなったが、これらの話はそういう場所で起ったものであると思って貰いたい。その年の八月、西郷隆盛がいよいよ日向《ひゅうが》の国に追い籠められたという噂が伝えられた頃である。わたしの家の庭内で毎晩がさがさという音が聞えるというので、女中たちはまた怖がりはじめた。なんでも夜がふけると、人か獣か、庭内を忍びあるくというのである。その当時、わたしの家庭は父と母と姉とわたしと、ほかに女中二人であったが、姉とわたしは子供と赤ん坊であるから問題にはならない。男というのは父ひとりで、ほかはみな女ばかりであるから、なにかの事があると一倍に騒ぎ立てるようにもなる。それがうるさいので、父ももう打捨てては置かれなくなった。
「おおかた野良犬でも這い込むのだろう。」
 こうは言いながらも、ともかくもそれを実験するために、父はひと晩眠らずに張番《はりばん》していた。それには八月だから都合がいい。残暑の折柄、涼みがてらに起きていることにして、家内の者はいつものように寝かしつけて置いて、父ひとりが縁側の雨戸二、三枚を細目にあけて、庭いっぱいの虫の声を聞きながら、しずかに団扇《うちわ》を使っていた。まだその頃のことであるから、床《とこ》の間《ま》には昔を忘れぬ大小が掛けてある。すわといえばそれを引っさげて跳り出すというわけであった。
 ことしはかなりに残暑の強い年であったが、今夜はめずらしく涼しい風が吹き渡って、更《ふ》けるに連れて浴衣一枚ではちっと涼し過ぎるほどに思われた。月はないが、空はあざやかに晴れて、無数の星が金砂子《きんすなご》のようにきらめいていた。夜ももう十二時を過ぎた頃である。庭のどこかでがさがさという音が低くひびいた。それが夜風になびく草の葉ずれでないと覚《さと》って、父は雨戸の隙き間から庭の方に眼をくばっていると、その音は一カ所でなく、二カ所にも三カ所にもきこえるらしい。
「獣だな。」と、父は思った。やはり自分の想像していた通り、のら犬のたぐいが忍び込んで何かの餌をあさるのであろうと想像された。
 しかし折角こうして張番している以上、その正体を見届けなければ何の役にも立たない。そうして、その正体をたしかに説明して聞かせなければ、女どもの不安の根を絶つことは出来ない。こう思って、父はそっと雨戸を一枚あけて、草履をはいて庭に降りた。縁の下には枯れ枝や竹切れがほうり込んであるので、父は手ごろの枝を持ち出して静かにあるき始めた。庭には夜露がもう降《お》りているらしく、草履の音をぬすむには都合がよかった。
 耳をすますと、がさがさという音は庭さきの空地の方から低く響いてくるらしい。前にもいう通り、ここは四目垣を境にしてただ一面の藪のようになっているので、人の丈《たけ》よりも高いすすきの葉に夜露の流れて落ちるのが暗いなかにも光ってみえる。父は四目垣のほとりまで忍んで来て、息をころして窺うと、あたかもその時、そこらの草むらがざわざわと高く騒いで、忽ちにきゃっ[#「きゃっ」に傍点]という女の悲鳴がきこえた。
 女の声は少しく意外であったので、父もぎょっとした。しかしもう猶予はない。父は持っている枝をとり直して、四目垣をまわって空地へ出ると、草むらはまた激しくざわざわ揺れてそよいだ。すすきや雑草をかきわけて、声のした方角へたどって行ったが、ふだんでもめったにはいったことのない草原で、しかも夜なかのことであるから、父にも確かに見当《けんとう》はつかない。父は泳ぐような形で、高い草のあいだをくぐって行くと、俄かに足をすべらせた。露にすべったのでもなく、草の蔓《つる》に足を取られたのでもない。そこには思いも付かない穴があったのである。はっと思う間に、父はその穴のなかに転げ落ちてしまった。
 落ちると、穴の底ではまたもやきゃっ[#「きゃっ」に傍点]という女の声がきこえた。父がころげ落ちたところには、人間が横たわっていたらしく、その胸か腹の上に父のからだが落ちたので、それに圧しつぶされかかった人間が思わず悲鳴をあげたのである。その人間が女であることは、その声を聞いただけで容易に判断されたが、一体どうしてこんなところに穴が掘ってあったのか、またそのなかにどうして女がひそんでいたのか、父にはなんにも判らなかった。
「あなた誰ですか。」と、父は意外の出来事におどろかされながら訊いた。
 女は答えなかった。あたまの上の草むらは又もやざわざわと乱れてそよいだ。
「もし、もし、あなたはどうしてこんな所にいるんですか。」
 女が生きていることは、そのからだの温か味や息づかいでも知られたが、かの女は父の問いに対してなんにも答えないのである。父はつづけて声をかけてみたが、女は息を殺して沈黙を守っているらしかった。
 なにしろ暗くてはどうにもならない。ここから家内の者を呼んでも、よく寝入っている女どもの耳に届きそうもないので、父はともかくもその穴を這い出して家からあかりを持って来ようと思った。探ってみると、穴の間口《まぐち》はさほどに広くもないが、深さは一間半ほどに達しているらしく、しかも殆んど切っ立てのように掘られてあるので、それから這いあがることは頗る困難であったが、父は泥だらけになってまず無事に這い出した。そのときに草履を片足落したが、それを拾うわけにもいかないので、父は片足に土を踏んで元の縁先まで引っ返して来た。

     二

 父に呼び起されて、母や女中たちも出て来た。
「早く蝋燭《ろうそく》をつけてこい。」
 裸蝋燭に火をつけて女中が持って来たのを、心のせくままに父はすぐに持ち出したが、その火は途中で夜風に奪われてしまった。父は舌打ちしてまた戻って来た。
「はだか蠣燭ではいけない。提灯をつけてくれ。」
 母は奥へかけ込んで提灯を持ち出して来た。それに蝋燭の火を入れて、父は再び現場へ引っ返したが、さてその穴がどの辺であったか容易に判らなくなった。ひと口に空地といっても、ここだけでも四百坪にあまっていて、そこら一面に高い草が繁っている。さっきは暗やみを夢中で探り歩いたのであるから、どこをどう歩いたのか判らない。倒れている草をたよりにして、そこかここかと提灯をふり照らしてみると、そこにもここにも草の踏み倒された跡があるので、いっこうに見当がつかない。と思ううちに、父は又もや足をふみはずして、深い穴のなかに転げ落ちた。
 落ちると共に蝋燭の火は消えてしまったので、父はさっきの困難を繰り返さなければならないことになった。ようやく這いあがったものの、あたりが暗いので何が何やらよく判らない。父は又もや引っ返して蝋燭の火を取りに行った。
「もう今夜は止して、あしたのことにしたらどうです。」と、母は不安らしく言った。
 しかし、かの穴には女が横たわっている。それをそのままにしては置かれないので、父は強情に提灯を照らして行ったが、かの穴はどこらにあるのか遂に見いだすことは出来なかった。暗やみで確かに判らなかったが、父が最初に落ちた穴と、二度目に落ちた穴とは、どうも同一の場所ではないらしかった。第二の穴には人間らしいものはもちろん横たわっていなかったのである。それから考えると、この草原には幾カ所かの穴が掘られているらしいが、それが昔から掘られてあるのか、近頃新しく掘られたのか、又なんのために掘られたのか、父にはちっとも判らなかった。
「あの女はどうしたろう。」
 それが何分にも気にかかるので、父は根《こん》よく探して歩いたが、どうしてもそれらしいものを見いだせないばかりか、よほど注意していたにもかかわらず、父はさらに第三の穴に転げ落ちたのである。提灯は又もや消えた。
「畜生。おれは狐にでも化かされているのじゃないかな。」
 まさかとも思いながらも、再三の失敗に父はすこし疑念をいだくようになっ
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