いか。かれらは何かに驚かされて、あるいは父の足音におどろかされて、あわてて逃げようとするはずみに、女はあやまってかの穴に転げ落ちたのではあるまいか。それでまず女の解釈は付くとしても、かの落し穴のようなものは何であろうか。あるいは彼等がそこで密会することを知って、何者かがいたずら半分にそんな落し穴を作って置いたのであろうか。
 こう解釈してしまえば、それは極めてありふれた事件で、単に一場の笑い話に過ぎないことになる。父もそう解釈して笑ってしまいたかったが、その以上に何かの秘密がひそんでいるのではないかという疑いがまだ容易に取りのけられなかった。そればかりでなく、ともかくも自分の所有地へ入り込んで、むやみに穴を掘ったりする者があるのは困る。いずれにしても、今夜ももう一度張番して、その真相を確かめなければならないと、父は思った。
 父は官吏――その時代の言葉でいう官員さんであるので、そんな詮議にばかり係り合ってはいられない。けさも朝から出勤して夕方に帰って来たが、留守のあいだに別に変ったことはなかった。今夜も家内の者を寝かしてしまって、父ひとりが縁側に坐っていると、ゆうべ碌ろくに眠らなかったせいか、十二時ごろになると次第に薄ら眠くなって来た。きょうも暑い日であったが、更《ふ》けるとさすがに涼しい夜風が雨戸の隙間から忍び込んで来る。それに吹かれながら、父は縁側の柱によりかかって、ついうとうとと眠ったかと思うと、また忽ち眠りをさまされた。例の空地の草むらの中で、犬のけたたましく吠える声が聞えるのであった。つづいて女の悲鳴が又きこえた。
 雨戸をあけて、父は庭先へ跳り出た。ゆうべの経験によって今夜は提灯を用意して行ったのである。片手には提灯、かた手には木の枝を持って、四目垣をまわって駈けていくあいだにも、犬は狂うように吠えたけっていた。その声をしるべにして、父は草むらをかき分けて行くと、犬は提灯の光りをみて駈けよって来た。
 その当時、英国の公使館が私の家の隣りにあって、その犬は何とかいう書記官の飼い犬である。犬は毎日のようにわたしの庭へも遊びに来て、父の顔をよく知っているので、今この提灯を持った人に対しては別に吠え付こうともしなかったが、それでも父の前に来て子細ありげに低く唸っていた。父は犬にむかって、手まねで案内しろといった。犬はその意をさとったらしく、又もや頻りにそこらを駈け廻っているので、父もそのあとに付いて駈けあるいていると、犬はひとむら茂るすすきの下へ来て、前足ですすきの根をかきながら又しきりに吠えた。急いで近寄って提灯を差し付けると、そこにも一つの穴があって、その穴から一人の大男があたかも這い上がって来た。
 よく見ると、それは公使館付きの騎兵で、今は会計係か何かを勤めているハドソンという男であった。彼は手にピストルを持っていた。
「今夜は犬がひどく吠えます。」と、ハドソンは明快な日本語で言った。「わたくし見まわりにまいりました。こちらの藪のなかに人が隠れておりました。その人は穴を掘っております。わたくし取押えようとしますと、その人逃げました。わたくし穴に落ちました。」
「その人、男ですか、女ですか。」と、父は訊いた。
「暗いので、それ判りません。」と、ハドソンはからだの泥を払いながら答えた。
 二人はしばらく黙って露の中に突っ立っていた。犬はまだ低くうなっていた。ハドソンはおそらく泥棒であろうといったが、泥棒がなぜ幾つもの穴を掘るのか、それが解きがたい謎であった。
 あくる朝になって父は再び空地を踏査すると、なるほど新しい穴がまた一つふえていた。ハドソンの落ちたのは古い穴で、彼はそんな穴が幾つも作られていることを知らないで、一昨夜の父とおなじような目にあったのである。

     三

 何者がなんのためにここへ来て、根《こん》よく幾つもの穴を掘るのか、父はいよいよその判断に苦しめられた。そこで、ハドソンと相談して、今夜はふたりが草むらの中に隠れている事にすると、年の若い英国の騎兵はこの探検に興味を持っているらしく、宵のうちから草むらに忍んでいて、なにかの合図には口笛を吹くといった。しかも十時を過ぎる頃まで彼の口笛はきこえなかった。家内の者を寝かしてから、父も身支度して空地へ出張したが、今夜は風のない夜で、草の葉のそよぐ音さえも聞えなかった。二人は夜露にぬれながら徒《いたず》らに一夜をあかした。
「奴等《やつら》も警戒して迂濶に出て来ないのだろう。」と、父は思った。第一の夜には父に追われ、第二の夜には犬に追われ、かれらも自分たちの危険をおもんぱかって、ここへ近寄ることを見合せたのであろう。常識から考えても、そうありそうなことである。
 ハドソンはその後三晩も張番をつづけたが、遂になんの新発見もなかった。父は夜露に打たれた為
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