べつ》として心ばかりの金を贈る。ただそれだけのことで遣り取りが済んだのであるが、明治の初年にはこんな空屋敷を買う者もない。借りる者も少ないので、新しい持主もほとんど持てあましの形で幾年間を打捨てて置いた。
 こういう事情で建ちぐされのままになっていた空屋敷を、わたしの父がやすく買取って、それに幾らかの手入れをして住んでいたのであるから、今から考えるとあまり居ごころのよい家ではなかったらしい。第一に屋敷がだだっ広い上に、建物が甚だ古いと来ているから、なんとなく陰気で薄っ暗い。庭も広過ぎて、とても掃除や草取りが満足には出来そうもないというので、庭の中程に低い四目垣《よつめがき》を結って、その垣の内だけを庭らしくして、垣の外はすべて荒地にして置いたので、夏から秋にかけてはすすきや雑草が一面に生い茂っている。万事がこのていであるから、その荒涼たる光景は察するに余りありともいうべきであるが、その当時は東京市中にもこんな化物屋敷のような家がたくさんに見いだされたので、世間の人も居住者自身も格別に怪しみもしなかったらしい。
 わたしの家《うち》ばかりでなく、周囲の家々もまず大同小異といった形で、しかも一方には山や森をひかえているのであるから、不用心とか物騒とかいうことは勿論であると思わなければならない。人間ばかりでなく、種々の獣《けもの》も襲ってくるらしい。現に隣りの家では飼い鶏をしばしば食い殺された。それは狐か狢《むじな》の仕業であろうということであった。夕方のうす暗いときに、なんだか得体《えたい》のわからない怪獣がわたしの家の台所をうかがっていたといって、年のわかい女中が悲鳴をあげて奥へ逃げ込んで来たこともあった。夏になると、蛇がむやみに這い出して、時には軒先からぶらりと長く下がって来ることがある。まったく始末におえない。
 前置きが少し長くなったが、これらの話はそういう場所で起ったものであると思って貰いたい。その年の八月、西郷隆盛がいよいよ日向《ひゅうが》の国に追い籠められたという噂が伝えられた頃である。わたしの家の庭内で毎晩がさがさという音が聞えるというので、女中たちはまた怖がりはじめた。なんでも夜がふけると、人か獣か、庭内を忍びあるくというのである。その当時、わたしの家庭は父と母と姉とわたしと、ほかに女中二人であったが、姉とわたしは子供と赤ん坊であるから問題にはならない
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