指図に従いますから、といって、大正五年に歌舞伎座で再演した時には、万事米斎君に御願いしました。おれだって出来るなんと思っても、やってみるとそうは行きません。
 私は自分が無趣味だから、米斎君の外の方面の事は殆ど知りません。俳句は本名の米太郎から「世音」と号して、白人会なんかでよくやっておいででしたが、ああいうものの控えがおありですかどうですか。旅行も相当なすったようだけれども、大概御用があったり御連れがあったりで、特に自分ひとりで思い立つというようなことはあまりなかったようです。一体がおとなしい方で、逸話というようなものはごく少い。その点は御父さんの米僊先生とは大分違うと思います。
 日清戦争の時には米僊先生も米斎君も従軍、弟さんの金僊君は日清、日露とも従軍されたようにおぼえています。私は金僊君の方は早くから知っていましたが、米斎君と懇意になったのは日露戦争のあたりからです。明治三十六年に三井呉服店が三越と改称して、流行会というものを拵えた。十五、六人|乃至《ないし》二十人位集って、流行を研究するということでしたが、マア一種の雑談会のようなものです。私にも会員になれということでなったの
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