顔は出来ません。下塗を乾かすために団扇《うちわ》で煽《あお》いだりしたものですが、今はそんな暢気《のんき》な事をやっていられないから、はじめから濃いやつを塗る。白粉《おしろい》の方もだんだん器用な物が出来るようですけれども、とにかく日本の芝居で幕間五分というのは、いろいろな点からいって無理なのです。正直にやれば長くなるから、臨機応変でやって行くということになります。
私の書いた『幡随院長兵衛』の芝居、あれは米斎君の方から、今度の芝居は湯殿が出ますか、という御尋ねがありましたから、出ますというと、今までの芝居でやっている湯殿は出たらめだ、あの時分の湯殿はこうこういうものだから、それで出来るように芝居を書いてくれ、ということなのです。私は実はあの頃の湯殿がどんなものだか知らないんですが、縁側みたいなものがあって手摺がついている。花活《はないけ》に花が活けてあったりして、何だか妙なものだと思ったけれども、万事先生の指図通りにやりました。この場合には限りませんが、舞台装置をなさる方にはまたそういう御道楽があって、今までやっているのは嘘だから、今度はこういう風にやる、というようなところでいい気持になるらしい。それだけ見物が感心するかどうかは疑問ですが、ここが前申した通り、好でなければ出来ないところです。役者にしたって同じ事で、下廻りの役者なんぞは、随分給料が安いといって不平を並べますが、大根《おおね》はといえば好なんだから唐物屋なら唐物屋で、もっと給料を出すからといったところで、役者をやめて其方《そっち》へ行きやしません。電車の運転手がハンドルを動かしているのとはわけが違う。芝居の方でもそこを心得ているから、奴らは何ていったって役者をやめやしないというんで、給料も余計は払わない、ということになるんでしょう。
大分余談が多くなりました。米斎君の舞台装置ではもう一つこういう話がある。明治四十三年の暮に私は『貞任宗任』というものを書きました。これは翌年の正月に幸四郎と左団次が演じたもので、例によって舞台装置は米斎君に御願いするつもりでいたところ、京都へ旅行なすっていて間に合わない。他に願う方もないものですから、エエいい加減にやっちまえというわけで、私が自分でごまかしておいた。米斎君は正月になって帰られて、芝居を見るといろいろ間違を指摘された。一言もないので、二度目にやる時には御指図に従いますから、といって、大正五年に歌舞伎座で再演した時には、万事米斎君に御願いしました。おれだって出来るなんと思っても、やってみるとそうは行きません。
私は自分が無趣味だから、米斎君の外の方面の事は殆ど知りません。俳句は本名の米太郎から「世音」と号して、白人会なんかでよくやっておいででしたが、ああいうものの控えがおありですかどうですか。旅行も相当なすったようだけれども、大概御用があったり御連れがあったりで、特に自分ひとりで思い立つというようなことはあまりなかったようです。一体がおとなしい方で、逸話というようなものはごく少い。その点は御父さんの米僊先生とは大分違うと思います。
日清戦争の時には米僊先生も米斎君も従軍、弟さんの金僊君は日清、日露とも従軍されたようにおぼえています。私は金僊君の方は早くから知っていましたが、米斎君と懇意になったのは日露戦争のあたりからです。明治三十六年に三井呉服店が三越と改称して、流行会というものを拵えた。十五、六人|乃至《ないし》二十人位集って、流行を研究するということでしたが、マア一種の雑談会のようなものです。私にも会員になれということでなったのですが、米斎君は已《すで》に三越に入っておられたか、あるいはまだ入られず米僊先生の代りにおいでなすったか、そこはハッキリしません。とにかくそこで御目にかかったのが最初でした。それ以来三十五年ばかりになるわけです。長い間だから劇評などを書かれたのもあるかも知れませんが、一人のものは今記憶にない。合評会には出ておいででした。主として扮装とか何とかいう方の批評をされたようです。
何時頃でしたか、米斎君が私のうちへおいでなすって、今そこで掘出し物をしました、といわれたことがある。代官山の駅を下りて此方へ来る途中の古道具屋で、私も湯へ行ったり、髪結床へ行ったりして始終その前を通るのですが、そこで買ったといって見せられたのが、青磁まがいのような壺みたいなものです。雑巾を貸してもらいたい、といって頻《しきり》に拭いておられたが、やっぱりそうです、という。全体いくらで御買いになったんですかと聞いたら、値段をいってしまうと仕方がないが、実は二十五銭で買いました、これで二十円、少くとも十四、五円のものでしょう、といわれたには驚いた。私は毎日その前を通っているんだけれども、ちっとも気がつかない。米斎君はヒ
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