指図に従いますから、といって、大正五年に歌舞伎座で再演した時には、万事米斎君に御願いしました。おれだって出来るなんと思っても、やってみるとそうは行きません。
 私は自分が無趣味だから、米斎君の外の方面の事は殆ど知りません。俳句は本名の米太郎から「世音」と号して、白人会なんかでよくやっておいででしたが、ああいうものの控えがおありですかどうですか。旅行も相当なすったようだけれども、大概御用があったり御連れがあったりで、特に自分ひとりで思い立つというようなことはあまりなかったようです。一体がおとなしい方で、逸話というようなものはごく少い。その点は御父さんの米僊先生とは大分違うと思います。
 日清戦争の時には米僊先生も米斎君も従軍、弟さんの金僊君は日清、日露とも従軍されたようにおぼえています。私は金僊君の方は早くから知っていましたが、米斎君と懇意になったのは日露戦争のあたりからです。明治三十六年に三井呉服店が三越と改称して、流行会というものを拵えた。十五、六人|乃至《ないし》二十人位集って、流行を研究するということでしたが、マア一種の雑談会のようなものです。私にも会員になれということでなったのですが、米斎君は已《すで》に三越に入っておられたか、あるいはまだ入られず米僊先生の代りにおいでなすったか、そこはハッキリしません。とにかくそこで御目にかかったのが最初でした。それ以来三十五年ばかりになるわけです。長い間だから劇評などを書かれたのもあるかも知れませんが、一人のものは今記憶にない。合評会には出ておいででした。主として扮装とか何とかいう方の批評をされたようです。
 何時頃でしたか、米斎君が私のうちへおいでなすって、今そこで掘出し物をしました、といわれたことがある。代官山の駅を下りて此方へ来る途中の古道具屋で、私も湯へ行ったり、髪結床へ行ったりして始終その前を通るのですが、そこで買ったといって見せられたのが、青磁まがいのような壺みたいなものです。雑巾を貸してもらいたい、といって頻《しきり》に拭いておられたが、やっぱりそうです、という。全体いくらで御買いになったんですかと聞いたら、値段をいってしまうと仕方がないが、実は二十五銭で買いました、これで二十円、少くとも十四、五円のものでしょう、といわれたには驚いた。私は毎日その前を通っているんだけれども、ちっとも気がつかない。米斎君はヒ
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