いたる紅白|瑠璃《るり》の花を現《うつつ》ともなく見入れるさま、画に描《かか》ばやと思う図なり。あなたの二階の硝子窓《がらすまど》おのずから明るくなれば、青簾《あおすだれ》の波紋《なみ》うつ朝風に虫籠ゆらぎて、思い出したるように啼出《なきだ》す蟋蟀《きりぎりす》の一声、いずれも凉し。
六時をすぎて七時となれば、見わたす街は再び昼の熱閙《ねつとう》と繁劇に復《かえ》りて、軒をつらねたる商家の店は都《すべ》て大道《だいどう》に向って開かれぬ。狼籍《ろうぜき》たりし竹の皮も紙屑も何時《いつ》の間にか掃《はき》去《さ》られて、水うちたる煉瓦の赤きが上に、青海波《せいかいは》を描きたる箒目《ほうきめ》の痕《あと》清く、店の日除《ひよけ》や、路ゆく人の浴衣《ゆかた》や、見るもの悉《ことごと》く白きが中へ、紅き石竹《せきちく》や紫の桔梗《ききょう》を一荷《いっか》に担《かた》げて売に来る、花売《はなうり》爺《おやじ》の笠の檐《のき》に旭日《あさひ》の光かがやきて、乾きもあえぬ花の露|鮮《あざ》やかに見らるるも嬉し。鉄道馬車は今より轟《とどろ》き初《そ》めて、朝詣《あさまいり》の美人を乗せたる人力車が斜めに線路を横ぎるも危うく、活《い》きたる小鰺《こあじ》うる魚商《さかなや》が盤台《はんだい》おもげに威勢よく走り来れば、月琴《げっきん》かかえたる法界節の二人|連《づれ》がきょうの収入《みいり》を占いつつ急ぎ来て、北へ往《ゆ》くも南へ向うも、朝の人は都《すべ》て希望と活気を帯びて動ける中に、小さき弁当箱携えて小走りに行く十七、八の娘、その風俗と色の蒼《あお》ざめたるとを見れば某《ある》活版所の女工なるべし、花は盛の今の年頃を日々の塵埃《ほこり》と煤《すす》にうずめて、あわれ彼女《かれ》はいかなる希望を持てる、老《おい》たる親を養わんとにや。わが嫁入の衣裳《いしょう》の料《しろ》を造らんとにや。
八時をすぐれば街はいよいよ熱閙の巷《ちまた》となりて、田舎者を待って偽物《いかもの》を売る古道具商《ふるどうぐや》、女客を招いて恋を占う売卜者《ばいぼくしゃ》、小児《こども》を呼ぶ金魚商《きんぎょや》、労働者を迎うる氷水商《こおりみずや》、おもいおもいに露店を列《なら》べて賑《にぎ》わしく、生活のために社会と戦う人の右へ走り左へ馳《は》せて、さなきだに熱き日のいよいよ熱く苦しく覚うる頃とな
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