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染太夫 そこで、今度は吉治さんとわたしとが六つ目の沼津の段を受持つことになりました。(吉治をみかへる)この人も節附にはなか/\苦勞しましてな。けふこゝへ來るのを幸ひに、急所急所の節附を一度お互に入れて置きたいといふので、二人はそのつもりで出て來ました。
吉治 お氣に入るか何うかは判りませんが、先づ出來るだけは工夫してみました。せめてはお米《よね》のサワリだけでも、一度お聽き下さいませんか。
半二 聽きませう。(形をあらためる)聽かせて下さい。
吉治 併《しか》しこゝは少し狹いやうでな。殊に病人の枕元では餘りに騷々しからう。ほかにお座敷は無いかな。
庄吉 (上のかたの小座敷を指す)では、あすこではどうでござります。
吉治 むゝ、それがよからう。お前、案内してくだされ。
庄吉 はい、はい。(三味線を持ちて先に立つ)
吉治 では、染太夫さん。
染太夫 あい。すぐにあとから行きます。
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(吉治と庄吉は縁傳ひに、上のかたの小座敷に入る。染太夫は起《た》ちかけて又坐る。)
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染太夫 先生。さつきから見てゐるに、お顏の色がどうも好くないやうだが、そんなに無理をしても好うござりますか、くどくも云ふ通り、操りは今が壇の浦でその大事の時節に先生のやうなお人を失つたら、平家の運命末危ふしと、わたし等も常々から案じてゐますぞ。
半二 それはお前がたに云はれるまでもなく、わたしもふだんから案じてゐます。門左衞門先生から出雲、松洛。そのあとを受け繼いで兎も角もこゝまで繋《つな》いで來たのは、及ばずながらこの半二の力で、見渡すところ操りの世界には私に代るほどの作者はない。
染太夫 それだから今度の御病氣が一倍案じられるのでござります。
半二 あやつりの作者では近松半二が最後の一人で、その亡い後が思ひやられる。流れる水に逆《さか》らつて、今までどうにか漕ぎぬけて來たが、その船頭のない後は……。櫂《かい》が折れるか船が沈むかその行末が眼にみえるやうで……。(嘆息して)まあ、お前がたが精出して働いて下さい。
染太夫 太夫や人形使ひばかりが幾ら働いても、好い作者がなくては……。いつも/\古い淨瑠璃の蒸返しばかりでは、いよ/\見物に飽きられるばかりですからな。
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(上のかたの障子をあけて、庄吉が聲をかける。)
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庄吉 もし、太夫さん、染太夫さん。
染太夫 あい、あい。
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(薄く雨の音、染太夫は起ち上りて空を見る。)
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染太夫 おゝ、たうたう降り出したか。
半二 降つたら今夜は泊まつておいでなさい。
染太夫 山科の里で春雨《はるさめ》を聽きながら、一夜を明かすのも好いかも知れませんな。まつたくこつちは閑靜だ。
庄吉 太夫さん、太夫さん。
染太夫 はて、せはしない男だ。
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(染太夫は上のかたの小座敷に入る。薄く雨の音。鶯の聲。やがて障子の内にて義太夫の三味線の調子をあはせる音がきこえる。半二は机に倚りかゝつてゐる。奧よりお作出づ。)
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お作 あちらではお淨瑠璃が始まるのでござりますか。
半二 むゝ、今書きかけてゐる伊賀越の節附がもう出來たといふので、染太夫と吉治が六つ目を語つて聞かせるさうだ。
お作 それはよい所へまゐり合せました。
庄吉 (再び障子をあける)先生、これから沼津の段の口を鳥渡《ちよつと》お聽きに入れます。(障子をしめる)
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(これより吉治が三味線をひき、染太夫が語るこゝろにて、伊賀の沼津の淨瑠璃がきこえる。)
※[#歌記号、1−3−28]あづま路に、かうも名高き沼津の里、富士見白酒名物を、一つ召せ/\駕籠《かご》に召せ、お駕籠やろかい參らうか、お駕籠お駕籠と稻むらの蔭に巣を張り待ちかける、蜘蛛の習《ならひ》と知られたり。浮世渡りはさま/″\に、草の種《たね》かや人目には、荷物もしやんと供廻《ともまは》り、泊りをいそぐ二人連れ――
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半二 あ、絲が切れたな。
お作 ほんに絲が切れたやうでござります。
庄吉 (又もや障子をあける)どうも相濟みません。絲が切れましたので、しばらくお待ち下さりませ。(障子をしめる)
半二 (お作に)絲が切れたので思ひ出したが、おまへに云つて置くことがある。わたしは我慢して八つ目までは書いたものゝ、無事に大詰まで書き負せるか何うだか、我ながら覺束《おぼつか》ないやうに思はれる。
お作 え。なんでそんな事が……。
半二 誰がなんと云はうとも、自分のからだの事は自分が一番よく知つてゐる。萬一わたしが今夜にも倒れてしまつて……。中途で筆を捨てるやうなことがあつたら、あとはお前が書き足してくれ。
お作 あれ、飛んでもないことを……。御存じの通り未熟者がどうして先生の御作に書き足しなどが出來ませう。木に竹をつぐと世の譬《たと》へにも申すのは、ほんにこの事でござります。どなたか書く人を大阪からお呼びなされては……。
半二 いや、その大阪にも呼んで來るほどの者がゐないのだ、なまじひの者に繼ぎ足しをされるよりも、いつそお前に頼む方が好い。わたしが頼むから書いてくれ。九つ目の筋のあらましはかねて話してある筈だ。それを土臺にして大詰の仇討まで……。この淨瑠璃はおそらく私の絶筆であらう。それが中途で切れてしまつては、座元も困るに相違なく、わたしも殘念だ。おまへのことは庄吉にも話して置いたから遠慮はない。(すこし考へて)さうだ。おまへの名はお作といひ、それがわたしの作に書き加へるのだから、近松加作……。正本《しやうほん》には近松半二と名をならべて、近松加作と署名するがよからう。
お作 (感激したやうに)はい。
半二 好いか、きつと頼むよ。
お作 はい、萬一のときには一生懸命に書いてみます。
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(障子の内にて又もや三味線の調子を合せる音きこえる。半二は咳き入る。)
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庄吉 (又もや障子をあける)今度はお米のサワリのところを、鳥渡お聽きに入れたいと申します。(云ひかけて覗く)大分お咳が出るやうでござりますな。
半二 いや、かまはない。早く聽かせてくれ。(又咳き入る)
お作 お藥を持つてまゐりませうか。
半二 いや、お前もこゝで聽いてゐろ。
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(障子の内にて又もや淨瑠璃がきこえる。)
※[#歌記号、1−3−28]問はれてお米は顏をあげ、恥かしながら聞いて下さりませ。樣子《やうす》あつて云ひかはせし、夫の名は申されぬが、わたし故に騷動起り、その場へ立合ひ手疵《てきず》を負ひ、一旦|本復《ほんぷく》あつたれど、この頃はしきりに痛み、いろ/\介抱盡せども效《しるし》なく、立寄る方《かた》も旅の空、この近所で御養生。長いあひだに路銀も盡き、そのみつぎに身のまはり、櫛《くし》笄《かうがい》まで賣り拂ひ、最前もお聽きの通り、悲しい金の才覺も男の病が治したさ。さきほどのお話に、金銀づくではないとの噂、ともしびの消えしより、あの妙藥はどうがなと、思ひつきしが身の因果。どうぞお慈悲にこれ申し、今宵のことはこの場ぎり、お年寄られしお前にまで、苦勞をかけし不孝の罪、けふや死なうか、あすの夜は、わが身の瀬川《せがは》に身を投げてと、思ひしことは幾たびか、死んだあとまでお前の嘆きと、一日ぐらしに日を送る。どうぞお慈悲に御料簡と、あづま育ちの張りも拔け、戀の意氣地《いきぢ》に身を碎く、こゝろぞ思ひやられたり。
(この淨瑠璃を聽くあひだに、半二はをり/\に咳き入る。奧よりおきよは藥を持つて出づれば、半二は要らないと押退けて、机に倚りかゝりながらぢつと聽いてゐる。そのうちに、だん/\弱つてゆくらしいので、お作とおきよは不安らしく見つめてゐると、半二はやがてがつくり[#「がつくり」に傍点]となりて机の上にうつ伏す。お作とおきよは驚いて半二をかゝへ起さうとする。薄く雨の音。小座敷の内ではそれを知らずに淨瑠璃を語りつゞけてゐる。)
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[#地から1字上げ]――幕――
[#地から2字上げ](昭和三年十月「文藝春秋」)
底本:「日本現代文學全集34 岡本綺堂・小山内薫・眞山青果集」講談社
1968(昭和43)年6月19日発行
初出:「文藝春秋」
1928(昭和3)年10月
入力:土屋隆
校正:小林繁雄
2006年7月18日作成
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