大詰まで書き負せるか何うだか、我ながら覺束《おぼつか》ないやうに思はれる。
お作 え。なんでそんな事が……。
半二 誰がなんと云はうとも、自分のからだの事は自分が一番よく知つてゐる。萬一わたしが今夜にも倒れてしまつて……。中途で筆を捨てるやうなことがあつたら、あとはお前が書き足してくれ。
お作 あれ、飛んでもないことを……。御存じの通り未熟者がどうして先生の御作に書き足しなどが出來ませう。木に竹をつぐと世の譬《たと》へにも申すのは、ほんにこの事でござります。どなたか書く人を大阪からお呼びなされては……。
半二 いや、その大阪にも呼んで來るほどの者がゐないのだ、なまじひの者に繼ぎ足しをされるよりも、いつそお前に頼む方が好い。わたしが頼むから書いてくれ。九つ目の筋のあらましはかねて話してある筈だ。それを土臺にして大詰の仇討まで……。この淨瑠璃はおそらく私の絶筆であらう。それが中途で切れてしまつては、座元も困るに相違なく、わたしも殘念だ。おまへのことは庄吉にも話して置いたから遠慮はない。(すこし考へて)さうだ。おまへの名はお作といひ、それがわたしの作に書き加へるのだから、近松加作……。正本《しやうほん》には近松半二と名をならべて、近松加作と署名するがよからう。
お作 (感激したやうに)はい。
半二 好いか、きつと頼むよ。
お作 はい、萬一のときには一生懸命に書いてみます。
[#ここから5字下げ]
(障子の内にて又もや三味線の調子を合せる音きこえる。半二は咳き入る。)
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
庄吉 (又もや障子をあける)今度はお米のサワリのところを、鳥渡お聽きに入れたいと申します。(云ひかけて覗く)大分お咳が出るやうでござりますな。
半二 いや、かまはない。早く聽かせてくれ。(又咳き入る)
お作 お藥を持つてまゐりませうか。
半二 いや、お前もこゝで聽いてゐろ。
[#ここから5字下げ]
(障子の内にて又もや淨瑠璃がきこえる。)
※[#歌記号、1−3−28]問はれてお米は顏をあげ、恥かしながら聞いて下さりませ。樣子《やうす》あつて云ひかはせし、夫の名は申されぬが、わたし故に騷動起り、その場へ立合ひ手疵《てきず》を負ひ、一旦|本復《ほんぷく》あつたれど、この頃はしきりに痛み、いろ/\介抱盡せども效《しるし》なく、立寄る方《かた》も旅の空、この近所で御養生。長いあひだに路銀も盡き、そのみつぎに身のまはり、櫛《くし》笄《かうがい》まで賣り拂ひ、最前もお聽きの通り、悲しい金の才覺も男の病が治したさ。さきほどのお話に、金銀づくではないとの噂、ともしびの消えしより、あの妙藥はどうがなと、思ひつきしが身の因果。どうぞお慈悲にこれ申し、今宵のことはこの場ぎり、お年寄られしお前にまで、苦勞をかけし不孝の罪、けふや死なうか、あすの夜は、わが身の瀬川《せがは》に身を投げてと、思ひしことは幾たびか、死んだあとまでお前の嘆きと、一日ぐらしに日を送る。どうぞお慈悲に御料簡と、あづま育ちの張りも拔け、戀の意氣地《いきぢ》に身を碎く、こゝろぞ思ひやられたり。
(この淨瑠璃を聽くあひだに、半二はをり/\に咳き入る。奧よりおきよは藥を持つて出づれば、半二は要らないと押退けて、机に倚りかゝりながらぢつと聽いてゐる。そのうちに、だん/\弱つてゆくらしいので、お作とおきよは不安らしく見つめてゐると、半二はやがてがつくり[#「がつくり」に傍点]となりて机の上にうつ伏す。お作とおきよは驚いて半二をかゝへ起さうとする。薄く雨の音。小座敷の内ではそれを知らずに淨瑠璃を語りつゞけてゐる。)
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ]――幕――
[#地から2字上げ](昭和三年十月「文藝春秋」)
底本:「日本現代文學全集34 岡本綺堂・小山内薫・眞山青果集」講談社
1968(昭和43)年6月19日発行
初出:「文藝春秋」
1928(昭和3)年10月
入力:土屋隆
校正:小林繁雄
2006年7月18日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全7ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング